今日の東京新聞夕刊に、日本国憲法の制作過程を描いた映画『日本の青空』の上映会に対し、主催の住民団体の後援申請を自治体が拒むケースが相次いでいるとの記事が載っていた。『日本の〜』は、現在の日本国憲法がGHQがゼロから起草したものではなく、鈴木安蔵や森戸辰男らの自由民権運動の流れを組む憲法研究会の憲法試案を土台となしたものだという事実を描いた映画だということだ。
地方公共団体は、映画を主催する住民団体の「政治」性を問題としているとのことだが、政治性、宗教性の判断よりも99条の公務員の憲法尊重擁護義務の方が優先されるべきではなかろうか。
月別アーカイブ: 2007年9月
『韓非子:不信と打算の現実主義』
冨谷至『韓非子:不信と打算の現実主義』(中公新書 2003)を読む。
久しぶりに知的好奇心が刺激される本であった。本書の内容は表紙の帯の宣伝文句に譲りたい。さすがプロの編集者による文章である本書の論点をずばり言い当てている。
紀元前3世紀、韓の王族に生まれ、荀子に学んだ韓非は、国を憂えて韓王を諌めるも容れられず、憤慨して著述に向かう。その冷徹な思想は秦の始皇帝をも魅了し、「この人物に会えたら死んでもよい」と言わしめた。人間の本性は善か悪か。真の為政者はいかにあるべきか。『韓非子』55編を読み解くのみならず、マキアベリ、ホッブズらの西洋思想と比較して、いまなお輝きを放ち続ける「究極の現実主義」の本質に迫る。
韓非なる人物は、性悪説に代表される荀子に師事し、秦の官僚の李斯につながる法家の大成者である。「焚書坑儒」を国是とする秦の国家運営の理論的支柱となった人物である。そのため、人間的な思いやりを重んじる儒家と比較して、厳罰主義で国民を支配しようとする非人間的なイメージがつきまとう。
しかし、韓非は「守株」や「矛盾」などの寓話を通して、儒家の徳治主義は人間のいい加減な資質に国家が左右される無責任なものであり、国家の成員がその本能と利害によって野放しに行動するため、国家そのものが崩れてしまうと説く。そして韓非は信賞必罰のルールを徹底することで、国民の行動を良い方向に促し、人間の悪い特質が社会に影響を与えない法治主義の仕組みを提唱したのである。そして押しつけ的な理想を無理に意識することなく、自然体で社会の秩序を守ろうとする人間の育成−老荘思想に近い社会のあり方−を目指したのである。そうした韓非の政治哲学は近世の市民社会や啓蒙主義と近いものであり、諸子百家の論争の深さを改めて実感する。
もし時間が許されるのならば、韓非子を深く研究し論文をまとめ上げたいと切に願うばかりである。少々長いがあとがきの最後の一節を引用したい。
(学生たちの書いたアンケートの中に)たとえば、他にこのような疑問があった。
−君主は自らをどのように権威づけるのか。権威なくして支配は可能か。
実に示唆に富む疑問である。「君主」とは。「権威」がもつ「尊厳」。その尊厳性が統治力となるのか。ことがらは、支配と被支配、君主と権威、権威を保証するもの、カリスマと支配の形態へ展開するであろう。
−科学の発達していない時代に韓非の思想は、なぜそこまで合理的、現実的でありえたのか。
誰しもが抱く素直な問いかけであろう。そこから科学と合理性の問題が出てくる。問いは、「科学が発達すると合理的、現実的思考が生まれる」との前提に立ってのものである。しかし、はたしてそうか。ならばなぜ「科学が発達した現代に、オカルト信仰、迷信に魅せられるのか。その実在が科学的に証明できない絶対的人格神を懐く宗教がなぜ科学的現代に併存しており、それに惹かれる者が跡を絶たないのか」、「いったい人間の思想の向上とは何か。さらには文化の発展とは何か」。さらに考えてほしい。「人間は、また社会は、賢くなっていくものか。人の愚かさの程度は韓非の生きた時代よりも減じたといえるのか」と。
時代を担う若き学徒の思想形成に、韓非の思想が何らかの役に立つことを願ってやまない。そして同じような問題意識を、本書を手にされた読者の方々とも分かち合い、ともに考えていくことができれば幸甚である。
『マンションを買う女たち』
矢崎葉子『マンションを買う女たち』(太田出版 1994)を読む。
仕事も順調で貯金もそこそこありながら結婚の予定がない30代から40代の女性4人がマンション購入を意識し、実際に契約にこぎ着けるまでの顛末を扱ったルポルタージュである。少々古い本であるが、独身女性の関心は近年、服装やアクセサリーだけでなく、インテリアや寺社仏閣、アンチークグッズなどへ裾野が広がっている。そのため、その行き着く先は総合的に自分らしさを表現できるマンションとなるのであろう。広さだけでなく内装や陽当たり、駅からの近さなど、我が家に対するこだわりに、かえって自分自身が振り回されてしまう女性の姿を追う。そうした女性についてノンフィクションライターの著者は次のように述べる。
独身女性がマンションを買うとき、あれこれ選択基準が厳しくなるというのは、「家を買わなければならない」という義務感から解き放たれているからであろう。家族の崩壊劇が珍しいことではなくなり、「家族の絆」という言葉がそらぞらしく聞こえはじめたとき、ファミリーにとっての家は、ある意味で、家族が家族らしく存在するための「幸せのハコ」だ。かたや、独身女性の場合は、自分が住みたいと思う家を選べばいい。
それぞれに、せつなさや困難さはあるけれど、最初から「沽券」にも「甲斐性」にもかかわらない女性たちは、その自由さの分だけわがままになれるのかもしれない。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』
庵野秀明監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)を観に行った。
久しぶりに映画だったので日常のストレス解消になった。映画館は日常から切り離され作品世界に没頭できるのがよい。内容的にはテレビ版の第8話くらいまでのダイジェスト版であった。父親との再会や使徒登場など重要な場面場面をつないでいてくイメージ映画のような内容であった。私自身は数年前にテレビを2回くらい通しで見ており、さらに解説本も読んでいたのですんなり話についていけたが、何の前提知識もなく初めて観た人はおそらく展開がさっぱり分からない映画であっただろう。
『「超」手帳法』
野口由紀雄『「超」手帳法』(講談社 2006)を読む。
著者考案の「超」整理手帳の宣伝本である。特に目新しい内容もなかったが、スケジュール管理やメモやTo-Doリストなど様々なツールの紹介を読んでいると、人間だれしも自分の行動を管理することが一番難しいのだと実感する。私自身手帳を活用するのは、効率的な自己管理を徹底し、勉強の時間や読書の時間、子どもとの時間を今以上に確保したいからである。忙しい自分に憧れるのではなく、暇な生活を目指したいからである。しかし、これがなかなかうまくいかない。。。(T_T)