冨谷至『韓非子:不信と打算の現実主義』(中公新書 2003)を読む。
久しぶりに知的好奇心が刺激される本であった。本書の内容は表紙の帯の宣伝文句に譲りたい。さすがプロの編集者による文章である本書の論点をずばり言い当てている。
紀元前3世紀、韓の王族に生まれ、荀子に学んだ韓非は、国を憂えて韓王を諌めるも容れられず、憤慨して著述に向かう。その冷徹な思想は秦の始皇帝をも魅了し、「この人物に会えたら死んでもよい」と言わしめた。人間の本性は善か悪か。真の為政者はいかにあるべきか。『韓非子』55編を読み解くのみならず、マキアベリ、ホッブズらの西洋思想と比較して、いまなお輝きを放ち続ける「究極の現実主義」の本質に迫る。
韓非なる人物は、性悪説に代表される荀子に師事し、秦の官僚の李斯につながる法家の大成者である。「焚書坑儒」を国是とする秦の国家運営の理論的支柱となった人物である。そのため、人間的な思いやりを重んじる儒家と比較して、厳罰主義で国民を支配しようとする非人間的なイメージがつきまとう。
しかし、韓非は「守株」や「矛盾」などの寓話を通して、儒家の徳治主義は人間のいい加減な資質に国家が左右される無責任なものであり、国家の成員がその本能と利害によって野放しに行動するため、国家そのものが崩れてしまうと説く。そして韓非は信賞必罰のルールを徹底することで、国民の行動を良い方向に促し、人間の悪い特質が社会に影響を与えない法治主義の仕組みを提唱したのである。そして押しつけ的な理想を無理に意識することなく、自然体で社会の秩序を守ろうとする人間の育成−老荘思想に近い社会のあり方−を目指したのである。そうした韓非の政治哲学は近世の市民社会や啓蒙主義と近いものであり、諸子百家の論争の深さを改めて実感する。
もし時間が許されるのならば、韓非子を深く研究し論文をまとめ上げたいと切に願うばかりである。少々長いがあとがきの最後の一節を引用したい。
(学生たちの書いたアンケートの中に)たとえば、他にこのような疑問があった。
−君主は自らをどのように権威づけるのか。権威なくして支配は可能か。
実に示唆に富む疑問である。「君主」とは。「権威」がもつ「尊厳」。その尊厳性が統治力となるのか。ことがらは、支配と被支配、君主と権威、権威を保証するもの、カリスマと支配の形態へ展開するであろう。
−科学の発達していない時代に韓非の思想は、なぜそこまで合理的、現実的でありえたのか。
誰しもが抱く素直な問いかけであろう。そこから科学と合理性の問題が出てくる。問いは、「科学が発達すると合理的、現実的思考が生まれる」との前提に立ってのものである。しかし、はたしてそうか。ならばなぜ「科学が発達した現代に、オカルト信仰、迷信に魅せられるのか。その実在が科学的に証明できない絶対的人格神を懐く宗教がなぜ科学的現代に併存しており、それに惹かれる者が跡を絶たないのか」、「いったい人間の思想の向上とは何か。さらには文化の発展とは何か」。さらに考えてほしい。「人間は、また社会は、賢くなっていくものか。人の愚かさの程度は韓非の生きた時代よりも減じたといえるのか」と。
時代を担う若き学徒の思想形成に、韓非の思想が何らかの役に立つことを願ってやまない。そして同じような問題意識を、本書を手にされた読者の方々とも分かち合い、ともに考えていくことができれば幸甚である。