月別アーカイブ: 2002年2月

『GHOST HITS 95~99』

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ここしばらく、クルマの中でソウルフラワーユニオンというバンドの『GHOST HITS 95~99』というCDを聴いている。
「インターナショナル」という昔の労働歌のお祭りバージョンにアレンジされた曲が聴きたくて買ったのだが、その他の曲もなかなかノリが良くて運転中ずっと流している。
そのCDに添付されていた歌詞カードの前文の文章が気になった。少し長いが引用してみたい。

1995年1月17日、阪神・淡路で起こった戦後最大の地震は、大勢の被災者を出した。その後遺症は、天災というよりも人災と呼べるような複雑な背景を持ちながらも、今もなお続いている。震災は同時に、ソウル・フラワー・ユニオンという希有なるロックンロール・バンドの存在の根幹をも揺らした。9月11日の”アメリカ同時多発テロ”以降、「音楽は何のために」、あるいは「音楽に何ができるのか」といった命題が、再び浮かび上がってきた、という実感が僕にはあるが、この時SFUは、そのような疑問に駆られ、それを真正面から受け止めざるをえなかったに違いない。それは具体的に草の根的な現場演奏という活動へと結実する。「根拠」のある音楽を演ろうとする一点において、ソウル・フラワー・ユニオンは、日本に暮らす多くの音楽集団と一線を画している。スタイルと技術はあれど、根拠だけがないバンドが数多くいる中で、その「根拠」を自らに問い続ける姿勢は、賞賛してしかるべきものだと僕は思う。(臺次郎)

この文章の中の「根拠」という単語が印象に残った。「根拠の無い音楽」、「根拠の無い文学」、「根拠の無い教育」、そして「根拠の無い政治」がはびこっている中で、自らの中に「根拠」を求めんとする姿勢は現在の世相においてもっとも大切なことではないだろうか。
それにしてもやはりインターはいいねえ。

『凍える牙』

ホームページを新しく移転し、しばらくぶりに雑記帳を再開する。
しばらくはこの間読んできた本の感想に使いたい。

今日は乃南アサ『凍える牙』(新潮社)を読んだ。
いかにも昨今の直木賞受賞作という印象だ。警察の男社会に放り込まれた女性刑事の日常を追いながらも、最後は疾風というオオカミ犬に焦点を移していく展開のうまさには、読者を引き込んでいく作者の意気込みが感じられる。
ここしばらくゆっくりと出来るので、古典を中心に読書をすすめていきたい。
今読まなきゃいつ読むんだ!!

『二十歳の原点』〜現在へ

日常生活に去来する様々な雑感を今一度客体視する必要がある。
インターネットの普及で感情的な直接表現が幅をきかせ、自分で自分の感情をコントロール出来ない時代に我々は入ってきている。何気ない自分の感情を吐露することで、自らに在する差別や汚濁を見つめ直していきたい。
もうすでに30数年前、立命館大学の学生であった高野悦子さんの日記(『二十歳の原点』)から引用してみたい。

このノートを書くことの意味ーー
これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりとしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮かんだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで、恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。
現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。
このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけた言葉が集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

彼女はこの4日後に鉄道自殺により尊い命を落としている。彼女の示唆するところの現在を規定する過去への視座は、個人の言葉すらも記号化されていく現在の中でこそ大切なものであると考える。