『二十歳の原点』〜現在へ

日常生活に去来する様々な雑感を今一度客体視する必要がある。
インターネットの普及で感情的な直接表現が幅をきかせ、自分で自分の感情をコントロール出来ない時代に我々は入ってきている。何気ない自分の感情を吐露することで、自らに在する差別や汚濁を見つめ直していきたい。
もうすでに30数年前、立命館大学の学生であった高野悦子さんの日記(『二十歳の原点』)から引用してみたい。

このノートを書くことの意味ーー
これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりとしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮かんだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで、恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。
現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。
このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけた言葉が集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

彼女はこの4日後に鉄道自殺により尊い命を落としている。彼女の示唆するところの現在を規定する過去への視座は、個人の言葉すらも記号化されていく現在の中でこそ大切なものであると考える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください