久保博司『警察崩壊!』(宝島社文庫)を読む。
警察組織の内部崩壊の一番の原因として、キャリア制度を取り上げている。特に警察庁のお飾りに過ぎない国家公安委員会の実態についてのルポは分かりやすかった。しかし冤罪事件を防ぐ方法として、「日ごろから、自分の行動を記録しておくことである。そういうメモがあれば、たとえ事件が起きた時間帯に一人でいたとして、その主張の助けにはなる。たとえば、『午後九時よりTV』とあれば、テレビを観ていたことを想いだせるし、捜査員にもメモを示せる」としたのはギャグ狙いか?
『日本語八ツ当り』
この間忙しくて、このページの更新が滞ってしまった。しかし本当にばたばたしている。1学期が終わるまではこのままの状況が続くのだろうか。
江國滋『日本語八ツ当り』(新潮文庫 1993)を読む。
「あたしって○○なヒトなのね」と自己を変に客観化する言葉や、「としている」という表現の乱用や、法律解釈における「又は」と「若しくは」の規定の煩雑さを取り上げ、日本語の悪しき流行を探ろうとしている。
この中で、サ変動詞に関する項目が興味深かった。「オバさんする」「主婦する」「風流する」などの用法について、著者は「ただの無法者もしくは与太者にすぎない。もっと正確にいえば、ことばのチンピラである」と述べる。サ変動詞というのは便利な用法で、何でも名詞を動詞化してしまう。例えば、「告白をする」という語が「告白する」と動詞化され、さらに「コクる」と省略化された語さえ若者の間で使われている。「事故をおこす」が「事故る」となったように。(私はインプッドメソッドにEGBRIDGEを用いているが、「事故る」は既に変換辞書に登録されていて一発で変換された)
私自身、最近携帯電話のauのCM文句にある「メーる」という語法が気になっていた。おそらくは「メールを出す」が「メールする」と動詞化され、さらに「メーる」と簡略化されたのであろうが、これは言葉の変化の延長線上にあり、将来日常的に使われる可能性は十分にある。
『DNA・遺伝子の不思議にせまる本』
中原英臣『DNA・遺伝子の不思議にせまる本』(成美文庫)を読んだ。
ヒトゲノムビジネスや遺伝子治療について分かりやすく書いてあって面白かった。DNAの問題は様々な分野に関わっており、マスコミでの報道も散発的なのでなかなか実態が掴みにくかったが、少し頭の中で整理出来た。
ただ日本人の起源やホモサピエンスの誕生などがミトコンドリアDNAの分析で説明がついてしまうというのは味気ないと思った。神話や文学というものは、これまでの自然科学では解明されていなかった人類の誕生や人間心理の妙を創造力豊かに描いてきたのであるが、そうした人文科学が積み重ねてきたドラマが覆されるような思いがした。例えば柳田国男が伊良湖の浜辺で見つけた椰子の実から日本人のルーツに思いをはせたことや、聖書の創世記に描かれているアダムとイブの楽園の話などがすべてDNA解析によって否定されてしまう。特に日本人起源論については文化人類学・民族学・言語学・宗教学等、様々な立場から分析が加えられており、学会の大きな論題となっている。しかしそうした喧々諤々の論争も、ATLウイルスのキャリアの分析によって南方系古モンゴロイドと大陸系の新モンゴロイドの交配が日本人の祖先であるといったDNAレベルでの結論の前には為す術もない。確かにDNAの示す解答が正答なのだろうが、どうも割り切れないものを感じる。どうやら遺伝子学の発展は医学薬学に対する影響だけでなく、文学・哲学の分野に及ぼす風当たりも強いようだ。
……ちょっと酔っているので読みにくい文章になった。
埼玉スタジアム2002
今日は日中、浦和の方へ出かけた。途中埼玉スタジアム2002の脇を車で通ったのだが、近くにある県立浦和東高校の案内標識に韓国語が交じっていた。いよいよ日韓共催のワールドカップが近いことを実感した。思えば最近テレビを観ていると韓国が自然に出てきていることに気付く。SMAPの草薙くんがハングルを口にする姿も板についてきた。また韓国の音楽や映画を目にする機会も増えてきた。ヨーロッパを中心に移民排斥の右傾化が強くなりつつあるが、ワールドカップ後も自然な形で日韓の文化交流が続くことを期待したい。
東京新聞朝刊より
本日の東京新聞の朝刊に分かりやすい良い投稿が載っていた。こうした分かりやすさが大切な気がする。
「歴史は繰り返される」(ローマの歴史学者クルティウス・ルフス)の有名な言葉がある。今、日本がその言葉の岐路に立たされている気がしてならない。小泉首相が性急に進めている「有事法制関連三法案」がそれだ。最近はテロ事件や侵略戦争が続く国際情勢であるが、国民生活の自由を束縛し、憲法の精神を逸脱した政府の軍事優先の姿勢には理解しがたい。政治家は過去の重い戦争の歴史を忘れてはいないか。
「十二月八日」はまだしも、「八月十五日」がどういう日か知らない学生が多いという。戦後五十七年、戦無派が大多数となった幸せな時代であるが、あの戦争の真相や原因を知識として学ぶことの必要性を感じる。
物事が行き詰まったら「歴史に学べ」とよくいわれる。今の政治、社会、教育のさまざまな難題を考える時、歴史特に、明治維新からの近現代史を世界史的視野で学ぶことが大切だ。昔から歴史の授業は時間がなくなり”しり切れとんぼ”のケースが多い。実はそのしっぽが肝心なのである。
私は戦中派で苦い体験をしてきたので、このしっぽに特別な思いがある。昔、生徒に歴史を教える立場だったので何とか太平洋戦争まではと思っていたが、駆け足になり今でも悔いを残している。最近は、学校も休日が増え、四月からの授業は三割減になった。高校生の孫に歴史はどこまでやったか、と聞くと「大正の初めまで」の答えだった。
やはりそうか…。最も大事なしっぽの部分が欠落したままで終わってしまったようだ。昭和史を含む近現代史をしっかり学べば、今の政治問題の手助けになるだろう。憲法だって戦前戦後の対比をすれば改憲論議の是非も、戦前の富国強兵は貧民強兵の飾り言葉にすぎなかったことも理解できよう。そして日本特有の天皇制と政党制、国民の義務と責任。一国のリーダーの品質、教育と倫理の重要さも分かろう。
歴史の個々の事実は一つだが、無数の事実の中から多角的に歴史を見る目(歴史観)が大切だ。特に近現代史を学ぶことによって今政府が向かおうとする道が将来の確かな道か判断できるのではないか。
(埼玉県秩父市 無職 宮前昇 79)
