『ヰタ・セクスアリス』

森鴎外『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫 1949)を読み返す。
鴎外は登場人物である金井湛氏をして、あらゆる宗教や芸術の根本に性欲があり、その性欲の萌芽が人間探求の根本に据えられるのではないかと言わしめている。高校時代はどきどきしながら読んだ記憶があるが、今読んでみると、性に対する関心を失ってしまったのであろうか、平々凡々な作品に感じられてしまうのは少し悲しい。

『新撰組』

童門冬二『新撰組:物語と史蹟をたずねて』(成美堂 1994)を読む。
薩摩・長州による維新達成した側の視点から新撰組を描いているので、新撰組のカリスマ性や一徹さよりも、残忍性ばかりが強調されてしまう内容になっている。「恐怖だけが、隊の結束を固める」という土方歳三の言葉に象徴されるように、幕府の形成が明らかに不利になって以降は、70年代前半の新左翼党派の内ゲバ闘争のような様相を帯び始める。「純粋なやつほど早くほろびるという人間社会普遍の真理を、新撰組の軌跡の上で実証したかった」と作者はあとがきで述べるが、新撰組の行動で美談とされる純粋な思いは最後まで理解することが出来なかった。

『阿部一族・舞姫』

森鴎外短編集『阿部一族・舞姫』(新潮文庫 1968)を読む。
漱石のひねくれた社会観に比べ、人間性が素直に出ている鴎外の方が分かりやすい。
「うたかたの記」については「舞姫」の二番煎じの感は拭えなかった。「阿部一族」は初めて読んだが鴎外ならではの人間観が巧みに描かれていて単純に面白かった。ストーリーの前半は江戸時代ある一国の殿様の死後、厚遇や名誉を得ようとばたばたと殿に仕えていた臣下の者が殉死していくという喜劇だが、後半は死者への弔いや主人への恩義を大義としながら殿の臣下たちが紛争状態へと突入していく封建社会ゆえの悲劇となっている。

「かのように」は鴎外自身「一層深く云えば小生の一長者(山県有朋)に対する心理的状態が根調となり居りそこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第に候」と述べているように、社会主義や無政府主義運動が庶民レベルで活発になりつつある1910年代において山県公から危険思想対策、すなわち思想善導の方法を求められ、それに応じて支配階級や保守主義はいかにあるべきかという論拠を小説という形を取りながら述べたものである。2600年も続いてきたという万世一系の天皇制という嘘にしがみつこうとする華族らを守ろうという形をとりながらも、彼らが拠って立つ理由が実はないことを鴎外は主人公の青年秀麿を通じて露呈させる。

人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぼつんと打ったって点にはならない。どんなに細かくすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線とがあるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィ(かのように)だね。(中略)自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。(中略)かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心としている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが澄み切った、純潔な感情なのだ。(中略)祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりとしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。

『「特別支援教育」で学校はどうなる』

越野和之・青木道忠『「特別支援教育」で学校はどうなる』(クリエイツかもがわ 2004)を仏教大学のスクーリングの授業の参考書として読む。
2003年3月に文科省より出された「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」に基づいて明らかにされた「特別支援教育」構想の批判的な検討を意図して編まれたものである。この「特別支援教育」とはこれまでの「特殊教育」に加えて、「約6%程度の割合で通常の学級に在籍している可能性」がある学習障害(LD)、注意欠陥/多動性障害(ADHD)、高機能自閉症などの子どもたちを新たに個別サポートしながら、通常学級での統合教育を目指すという壮大なプロジェクトである。
この「報告」は一見するところ「近年のノーマライゼーションの進展」や「一人ひとりの教育的ニーズに応じた教育」と、これまでの「平等、画一、排除」の論理に支えられた公教育体制を打破するような画期的なものになっている。しかしよく検討してみると、この「報告」では、障害児が安心して頼ることのできたこれまでの特殊諸学校や特殊学級を予算の都合で停止し、障害者に対して基盤整備の整っていない段階でいたずらに自立や自己責任を強請し、結果として「競争主義的な教育」の最底辺に特別支援教育置くというものになってしまう。

しかし、片方でこれまで50年続いてきた現行の就学前検診における一律な分離教育の限界も指摘されている。今後、この文科省主導の「特別支援教育」の流れに片足だけ乗りながら、人間の尊厳を大切にする障害児教育の具体的な実践を現場レベルで積み重ねて乗り越えていくことのできる人材が求められている。

佛教大学スクーリングテスト

障害児教育原論スクーリングテスト

学齢期の障害児に対する地域支援について検討せよ。
2001年1月15日に文科省より出された「21世紀の特殊教育の在り方について」の中で「教育、福祉、医療、労働等が一体となって障害のある子ども及びその保護者等に対して相談や支援を行う体制を整備すること」と提言されている。また2003年3月28日に出された「今後の特別支援教育の在り方について」の中においても障害種別に対応して設置されている現在の盲・聾・養護学校を障害種別にとらわれない「特別支援学校」とし、教育現場への療育や医療などの関連する分野の専門家の参画、さらには障害福祉圏などとの整合性をもった「支援地域」「(行政間の)部局横断型の委員会」の設定、就学前から学校卒業者までの一貫した相談体制の整備、「個別教育支援計画」の策定などが提言されている。これまでばらばらであった教育、福祉、地域の壁を破って有機的な連携体制の構築が求められている。

最近まで日本では特に学校の壁が厚く、地域や福祉との連携がうまく行っていなかった。文部科学省や厚生労働省、都道府県・市町村の地方自治体の行政の側の連携が欠けていたこともあり、個別の取り組みに終始していた。そのため障害児一人一人のニーズに沿った教育や、人生の各段階を連続して支援する体制が作られてこなかった。
しかし、欧米を中心に「ノーマライゼーション」や「インクルージョン」の考え方が日本に入ってきて、日本でも地域全体で障害児を支えようとする動きが定着しつつある。しかし、せっかくの「ノーマライゼーション」も理念ばかりが先行して具体的な実践が伴わないのが実態である。そこで上記の「今後の特別支援教育の在り方について」の中では、こうした地域と教育、福祉の連携の構築の責任者として「特別支援教育コーディネーター」の位置づけを提起している。この「特別支援教育コーディネーター」とは、「特別支援学校としての地域での役割を踏まえ」た「関係機関の連絡調整」を担うものとされている。つまり内々に問題を処理しがちな学校の閉鎖的な壁を破り、養護学校卒業者の就労の確保の取り組み、地域の社会福祉協議会や地域団体や福祉施設との連絡、相談、支援のパイプ作りが期待されている。
具体的に、放課後に障害児を預かる「レスパイトサービス」や障害児学童保育との障害児の連絡、障害児移送サービスやグループホームとの連携、地域のスポーツ少年団やボランティア団体とのより一層の交流の進展など、学校と地域、福祉を結ぶ連携体制のコーディネートの実践が要請されている。
とりわけ、LDやADHD、高機能自閉症などの児童生徒への個別の支援教育の充実という方向性を鑑みるならば、授産施設やグループホームなどのハード面、そしてデイケアサービスや在宅介護などのソフト面の充実は急務である。