『阿部一族・舞姫』

森鴎外短編集『阿部一族・舞姫』(新潮文庫 1968)を読む。
漱石のひねくれた社会観に比べ、人間性が素直に出ている鴎外の方が分かりやすい。
「うたかたの記」については「舞姫」の二番煎じの感は拭えなかった。「阿部一族」は初めて読んだが鴎外ならではの人間観が巧みに描かれていて単純に面白かった。ストーリーの前半は江戸時代ある一国の殿様の死後、厚遇や名誉を得ようとばたばたと殿に仕えていた臣下の者が殉死していくという喜劇だが、後半は死者への弔いや主人への恩義を大義としながら殿の臣下たちが紛争状態へと突入していく封建社会ゆえの悲劇となっている。

「かのように」は鴎外自身「一層深く云えば小生の一長者(山県有朋)に対する心理的状態が根調となり居りそこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第に候」と述べているように、社会主義や無政府主義運動が庶民レベルで活発になりつつある1910年代において山県公から危険思想対策、すなわち思想善導の方法を求められ、それに応じて支配階級や保守主義はいかにあるべきかという論拠を小説という形を取りながら述べたものである。2600年も続いてきたという万世一系の天皇制という嘘にしがみつこうとする華族らを守ろうという形をとりながらも、彼らが拠って立つ理由が実はないことを鴎外は主人公の青年秀麿を通じて露呈させる。

人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぼつんと打ったって点にはならない。どんなに細かくすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線とがあるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィ(かのように)だね。(中略)自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。(中略)かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心としている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが澄み切った、純潔な感情なのだ。(中略)祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりとしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。

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