『不況に負けない再就職術』

中井清美『不況に負けない再就職術』(岩波アクティブ新書 2002)を読む。
仕事一筋に生きてきた人間ほど、リストラや転職不採用といった仕事上の失敗を、人格が否定されたように感じてしまいがちで、うつ病になってしまったり、家族の不和を生じやすいそうだ。作者は現在の厳しい雇用状況においても、再就職や転職における熱意や動機をうまく表現するコツがあり、また中高年だからこそ、就職活動をする過程で自分の生き方そのものを見直すことのできる良い契機だと述べる。

『いじめを考える』

なだ いなだ『いじめを考える』(岩波ジュニア新書 1996)を読む。
いじめ問題というと個別的な問題として、個人的な内面性の分析が中心となってしまうが、それでは日本社会におけるいじめの構造が捉えられないと、あくまで社会的な歴史的な分析から日本におけるいじめの実態を探る。

ぼくの主張は、簡単にいえば、犯罪をゼロにできないように、〈いじめ〉をいますぐゼロにはできない、という認識を出発点にしている。だが、人類は二世紀にわたって、この〈いじめ〉を乗り越える努力をすでにしてきたことを思い出して、それを希望にしよう、というのだ。〈いじめ〉の不幸な事件があるたびに、広い意味での人権を守る歴史を見直すよい機会だと、積極的に受け取り、勉強する。そうしていけば、いつかは分からないが、そのうちに〈いじめ〉はなくなる。そういうぼくの漸進的な主張は、すべての〈いじめ〉を一刻も早く、世の中からなくしたい、と考える人にとって、なまぬるいと思われるかもしれないが、すべて人間的な措置は、人間の体温がなまぬるいように、なまぬるいものだ。ジャーナリズムが何といおうと、青少年犯罪は長い目で見れば、日本では、昭和三十年代をピークに激減といってもいいほど減少してきている。その事実を知れば、〈いじめ〉をなくすのは長い戦いになるから、一息いれることもできるだろう。〈いじめ〉は憎むべきことだが、それは人間社会の憎むべきことの一つにすぎない。それを報じるマスコミのありかたのほうが、病的な社会現象だとぼくは考えている。学校の〈いじめ〉を民族の差別を比較し、また女性差別を比較する。そしてその比較から、展望をえて、希望を引き出したいと思う。

作者の述べるように、1960年代と比べて、少年殺人事件や強盗、強姦、自殺は明らかに減ってきている。マスコミの報道が加熱しているから、増えているように感じるが、学校教育における人間教育は少しずつであるが進展している。しかし横領や窃盗などの軽犯罪における検挙人数は60年代の数倍の数に達する。物を大切にする心が社会全体で荒んできていることの証左であろう。新しい形での環境教育の充実が求めれられる。

『情報編集の技術』

矢野直明『情報編集の技術』(岩波アクティブ文庫 2002)を読む。
『ASAHIパソコン』の初代編集長として、編集体制や技術そのものが大きく変動する中での求められる編集者としての資質を問う。作者は編集工学研究所の松岡正剛氏の「情報をくみたて、それを構成したり再編成したり、また、そこにゲームやルールをつくっていくこと、それらはすべて編集です。ですから、歴史も編集だし、政治も編集、経済も編集なのです」「編集は人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」という意見を引用しながら、パソコンやソフトの発達で、万人が編集者になれる時代において「より先鋭化し、差別化したかたち」の「職業としての編集者」のありようを模索する。

『日本文学の古典50選』

久保田淳『日本文学の古典50選』(岩波ジュニア新書 1984)を読む。
古事記から東海道四谷怪談まで上代から近世までの代表的な文学作品の紹介、解説となっている。枕草子や方丈記もさることながら、後白河法皇編纂による『梁塵秘抄』の解説が興味深かった。残念ながら『梁塵〜』は現在ほとんど残っていないが、彼の極めんとした7・5調の繰り返しによる「今様(いまよう)」に興味を覚えた。

『自由に至る旅』

花村萬月『自由に至る旅ーオートバイの魅力・野宿の愉しみ』(集英社新書 2001)を読む。
ツーリングに魅せられた芥川賞作家の花村氏が「一人旅」のススメを説く。思えば今年は、私自身高校を卒業してから初めてバイクのない夏を迎えることとなる。高校を出てからの過去12年間の夏はいつもどこかしらへツーリングに出かけていた。そこで自分自身の来し方行く末を見つめ直し、新たな英気を得ていた。車で一人でドライブに行く気もしないので、今年の夏は買い物用の自転車でどこかへ出かけようか策略中である。

 学生は、いま、即座に、躊躇わず旅にでなさい。それができる状態にあるのですから、旅立たないのは無様であり、怠惰です。当然ながら学校に行くよりもよほど勉強になる。予備知識は捨ててしまいましょうね。見たままでいいのです。それこそが生きた地理の勉強であり、歴史の勉強であり、人間に対する勉強です。本にこう書いてあったと主張するよりも、俺は実際に見てきたんだよ、の一言が絶対的なる神の言葉であります。書物は素晴らしいけれど、所詮は他人の主観、真に受けない能力を鍛えるためにも旅立ちなさい。