本日の東京新聞の夕刊

本日の東京新聞の夕刊に一橋大学教授の鵜飼哲氏の談話が載っていた。
東大の駒場寮や法政の学生会館など学生が自主的に自己形成してきた場ががなくなっていることについて、「迷惑はいけない、安全という名目で自由な空間や時間を奪い、人間を窒息させる自殺行為」だと断じる。そして2005年における抵抗の条件について以下のように述べる。
明確な批判なり、欠点を指摘することも大切だが、まずは「ちょっと待てよ」と踏みとどまることが抵抗の第一歩だと鵜飼氏は述べるのだ。「上意下達」に物事を鵜呑みにし、「大人のふり」をして、何ごとも分かったような顔をするのは止めろということだ。

 今の危機は何か、踏みとどまって考えること。抵抗の第一歩は踏みとどまることです。何も言わなければ抵抗にならないという考えはありますが、僕は多様であっていいと思う。無党派、引きこもり、年間三万人という自殺者…いずれも抵抗の一つでしょう。自殺は、十年で三十万人近くが死んだ、自分に対する内戦だったと考えるべきです。
新たに学ぶというよりある種、学んでしまったことを捨てること。体や心をズラして、ゆったり構えて持続することが一番大事かもしれない。中国文学者の竹内好は、日本の“一木一草に天皇制がある”と書いた。息の長い文化闘争が必要なんだと思います。まずは日本人を拘束してきた“迷惑”という言葉の使い方を考え直してはどうでしょう。

『日本のブラックホール』

櫻井よしこ『日本のブラックホール:特殊法人を潰せ』(新潮社 2001)を読む。
郵貯、簡保などの財投によって湯水のごとく国民のお金を無駄遣いする特殊法人の財務諸表を暴露しながら、特殊法人改革を訴える。
2001年度で言うと、国会で審議される一般会計が82.7兆円なのに対して、官僚が扱う特別会計の歳出は217兆円にもなる。さらに地方自治体の予算も足すと、ネットの歳出額は300兆円にもなるという。日本のGDPが510兆円なので、大雑把に言えば、日本全体のお金の歳出の60%は公的支出になるというのだ。もちろん、そうしたお金の全部が国民の生活と福祉を向上されているのに使われているのならばどこからも文句はでないであろう。しかし実態は日本道路公団や本州四国連絡橋公団、都市基盤整備公団、水資源開発公団、石油公団など数え上げたら切りがないほどの特殊法人が黒字の見込みの全くない赤字経営を続けている。特殊法人の整理については、政治の英断を期待するしかないのだろうか。

『豊かさとは何か』

 暉峻淑子『豊かさとは何か』(岩波新書 1989)を読む。
 何度も版を重ねている大ベストセラーである。旧西ドイツの社会保障政策との比較から、日本の社会保障の貧しさをこれでもかと指摘する。旧西ドイツの良い面しか強調していないという嫌いはあるが、バブル景気に浮かれる日本人の浅はかさは十二分に伝わってくる。

 著者の暉峻さんは、自己責任、自助努力などのスローガンで福祉を切り捨てようとする当時の中曽根内閣の臨調路線に全面的な批判を加えている。市役所の福祉窓口で生活保護の申請を却下する者ほど有能と見られるといった現場の情況を分析することから、日本の貧困な福祉政策を追及する。現在の小泉政権を捉える上でも参考になるところが多い指摘である。そして、社会と個人の関係について下記のように述べる。

 現在、私たちは、私有財産制度のうえに、完全に個人として生きていると思いがちである。だから、自己責任とか、自立自助、契約の自由等については、当然のこととしてあやしまず、また個人として生きるうえにとくに支障はない、と考えている。

 しかし個人の自由が、じつは共同体的な土台によって支えられていることを、私たちは忘れてはならない。共同体的な土台を、自然環境にまでひろげて考えれば、その意味はいっそう明白になる。人間は、いつの時代にも、社会的な動物として生きており、個人として生きることは、同時に社会人として、共有の場に支えられて生きることでもあった。

 暉峻さん自身、目指すべき明確な家族像なり社会像を提示することはしない。彼女の示唆する「豊かな社会」は極めてぼんやりとしたものである。労働そのものを否定せず、労働の価値を尊重した上で、地域と家族の幸福につながる労働のあり方を次のように提示する。

 もし豊かに人生を生きる、という発想からすれば、「ゆたか」とは、ひとびとの共存、自然との共存をひろげていくような労働を意味する。エーリヒ・フロムは、それを、人間や未来に対する思いやりと連帯のための能動性だと言っている。

 そう考えてくると、私たちは、労働時間の短縮、つまり自由時間の増大だけではなく、労働のありかたを変えていくことなしには、豊かな生活はありえない、という課題に到達する。つまり、生活の中の労働と、社会的な労働を統一する必要にかられる。

 生活とも、地域社会とも切りはなされ、消費のたのしみしかなく、あるいは営利企業に組織されたレジャーのたのしみで、自分自身がふり回されている。そういう生きかたから、そろそろ私たちは脱却すべきではないのだろうか。

 私たちは、本当は労働時間の短縮だけでなく、労働のなかにも豊かさを体験したいと望んでいるのではないだろうか。そしてその欲求は、社会全体の流れを変えることなしには、実現できないことを知っているゆえにこそ、まず手はじめに、労働時間の短縮をねがい、人間らしい生活をするゆとり、思考するゆとり、感じるゆとり、地域社会を作っていくゆとり、政治参加の時間を持つゆとり、を得ようとしているのだと思う。

『君はパレスチナを知っているか』

 奈良本英佑『君はパレスチナを知っているか』(ほるぷ出版 1991)を読む。
 古い本であるが、シオニズム運動を援護する「バルフォア宣言」、アラブの独立を認める「サイクス・ピコ協定」、そしてフランスとの分割統治を取り決めた「フサイン・マクマホン書簡」などの一連のイギリスの二枚舌、三枚舌外交によって生まれた中東問題について詳しく書かれている。

 著者は徹底してイスラエル政府を批判的に捉え、パレスチナ自治政府の正当な存在権利を主張する。日本のマスコミでは、右派政府による強硬策を打ち出すイスラエルとゲリラ戦を繰り返すPLOという分かり易い図式で報道されるが、実際はもう少し複雑なようである。衝突を繰り返すイスラエルとパレスチナの間で、離散を強いられてきたイスラエル市民のための故郷、そして今隔離を強いられているパレスチナ難民の共存共栄を目指す市民グループがイスラエル国内にもアラブ各国にも数多く存在するのだ。特に、イスラエル政府の拡大路線を批判し、大規模なデモ活動を策動する「ピース・ナウ」等のイスラエル市民グループの存在は影響力こそ限られるが、その存在意義は大きい。

 今月よりイスラエルのシャロン首相とアッバス・パレスチナ自治政府議長との会談が4年半ぶりに再開される。しかし、そうした首脳会談を突き動かし、それに大きな期待を寄せる市民の存在を新聞の行間から感じ取らねばならない。

『大学でいかに学ぶか』

 今日でやっと高校三年生の授業が終了した。
 授業やホームルームの中で大学への進学を「絶対」的なものだと無責任に喧伝しなかっただろうかと内省し、一冊本を読み返してみた。

 増田四郎『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書 1966)を読む。
 40年以上も前の古い本であるが、50版近く増刷されているベストセラーである。著者自身の貧しい生活をしながら大学で学んだ過去を紹介しながら、一研究者という立場から謙虚に学問の価値について論じている。著者が卒業式に教え子へのコメントとして「学則不固」と書いたエピソードが印象に残った。「学べば、すなわち、固くならず」ということである。私自身大学生の時代は、本で学ぶ勉強は頭が固くなる原因だと思っていた。しかし、最近は何かしらでも学ぶことをしないと、逆に頭が日常の生活状況に「規定」されてしまうとつくづく実感する。

 しかし、著者の増田氏は一橋大学の学長の経歴からであろうか、大学内における「ゼミナール」を絶対的なものと捉える傾向にあり、当時勃興しつつある学生運動に下記のような批判的な意見を加えている。

 いたずらに政治的になり、否定的な批判だけにはしり、いたずらにスローガンだけをかかげて、しかも責任をもたないでやって、それを実践だと思っているひとがいないでしょうか。けれども、真の実践活動というものは、もっとじみなものなのです。変革が起ころうと、改良主義に終わろうと、もっと大きな目標をもって、じみな仕事をしていくことです。最初から派手なスタンドプレーをしたところで、あるいは勇ましいことをいったところで、成功などとても望めません。ことに、学問の世界にあっては、その仕事は根っからじみなものです。