今日でやっと高校三年生の授業が終了した。
授業やホームルームの中で大学への進学を「絶対」的なものだと無責任に喧伝しなかっただろうかと内省し、一冊本を読み返してみた。
増田四郎『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書 1966)を読む。
40年以上も前の古い本であるが、50版近く増刷されているベストセラーである。著者自身の貧しい生活をしながら大学で学んだ過去を紹介しながら、一研究者という立場から謙虚に学問の価値について論じている。著者が卒業式に教え子へのコメントとして「学則不固」と書いたエピソードが印象に残った。「学べば、すなわち、固くならず」ということである。私自身大学生の時代は、本で学ぶ勉強は頭が固くなる原因だと思っていた。しかし、最近は何かしらでも学ぶことをしないと、逆に頭が日常の生活状況に「規定」されてしまうとつくづく実感する。
しかし、著者の増田氏は一橋大学の学長の経歴からであろうか、大学内における「ゼミナール」を絶対的なものと捉える傾向にあり、当時勃興しつつある学生運動に下記のような批判的な意見を加えている。
いたずらに政治的になり、否定的な批判だけにはしり、いたずらにスローガンだけをかかげて、しかも責任をもたないでやって、それを実践だと思っているひとがいないでしょうか。けれども、真の実践活動というものは、もっとじみなものなのです。変革が起ころうと、改良主義に終わろうと、もっと大きな目標をもって、じみな仕事をしていくことです。最初から派手なスタンドプレーをしたところで、あるいは勇ましいことをいったところで、成功などとても望めません。ことに、学問の世界にあっては、その仕事は根っからじみなものです。