『キャラクター・コミュニケーション入門』

 秋山孝『キャラクター・コミュニケーション入門』(角川oneテーマ21 2002)を読む。
 これまで漫画アニメ大国である日本において正当に評価されてこなかった「キティちゃん」や「ペコちゃん」といったキャラクターの芸術的価値と資産的価値について分析を加えている。キティちゃんやアンパンマンにしろ、また、フェリックスや鉄腕アトムにしろ人気のあるキャラクターの造形には一定の法則があることを秋山氏は明らかにしている。そしてその法則は幼い子どもの描くデフォルメ化された動物の絵と大変良く似ている。この法則の延長上にある限りキャラクターは永遠であると著者はまとめる。

『大変な時代』

 先日読んだ本の中で、内橋氏が批判の的に挙げていた本を敢えて手に取ってみた。
 堺屋太一『大変な時代』(講談社 1995)を読む。
 しかし、内橋氏の本を読んだ後ではほとんど印象に残るところはなかった。堺屋氏はこれからのグローバリゼーションの進展にあたり、「メガ・コンペティション・エイジ(大競争時代)」がやってくるから、腐敗した官僚制度に頼らず、徹底したローコストな「経営製造流通制度」の確立と消費向上を狙った産業の育成が大切だと述べる。官僚による「護送船団方式」を排除し、自由な競争の土壌を作ることこそが日本を救うといった民主党右派的な論調である。

 しかし、それから10年たったが、彼の述べるリストラと価格破壊は日本の経済成長に何らの寄与もしなかった。そして、一定の雇用の確保と育児・介護といった社会保障の充実こそが少子化を食い止め、労働者の勤労意欲を高め、引いては経済成長も促すという当たり前のことが再発見されたのである。

『浪費なき成長』

 内橋克人『浪費なき成長』(光文社 2000)を読む。
 内橋氏は神戸出身で、神戸の震災復興策が日本型経済を象徴していると述べる。神戸の震災復興で当時の政府がもっとも力を入れたのは道路や橋、港湾施設、鉄道などの「マクロ生産基盤」の回復であった。しかし、当時の村山首相の「自然災害に個人補償はない」という声を裏付けるように、被災地の人々の暮らしは震災前よりも明らかに生活水準が低下し、失業率は回復の兆しを見せていない。阪神大震災から今年で10年経ち、高速道路や駅など見る限り震災の傷跡は既に完治したように見える。しかし、そこに暮らす人々の生活は何百兆円の赤字国債の穴を埋めるに、敢えて莫大な公共投資による経済浮揚を計るような「浪費」を重ねるのではなく、「生きる」「働く」「暮らす」という、これまで分断されてきたものを統合しようという方向を目指さねばならないと述べる。

『レフト・アローン』

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2005年2月5日よりユーロスペースにて

『レフト・アローン』公式ホームページより引用
1968年生まれのひとりの映画監督が、68年を探る映画を撮る。
学生たちの政治運動。革命。そして、68年を境に政治運動はカウンター・カルチャーと結びつき、80年代にはサブカルチャーとして脱色化されていく…。68年は、ニューレフト運動にとって決定的な転回点であった。映画は、2001年に早稲田大学で勃発したサークルスペース移転阻止闘争において非常勤講師でありながら学生達と共に大学当局と闘う批評家、スガ秀実の姿を捉えることから始まり、松田政男、柄谷行人、西部邁、津村喬にいたる60年代の学生活動家たちと対話を重ねていく。

『レフト・アローン1』では、ニューレフトの誕生から、花田清輝と吉本隆明の論争、68年の安保闘争に至る過程をスガ秀実、松田政男、鎌田哲哉、柄谷行人、西部邁とともに様々な角度から検証し、『レフト・アローン2』では、68年革命の思想と暴力という問題、1970年7月7日の華僑青年闘争委員会に始まる在日朝鮮人・中国人等に対する反差別闘争の衝撃、毛沢東主義の新たな可能性から、現在の大学再編と自治空間の解体をめぐって、ニューレフトの行方が、スガ秀実、松田政男、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔によって語られていく。体制への反逆。60年安保という激動期。思想と暴力。それぞれの闘争と転機。悲劇から喜劇へ。そして、今なお左側を歩き続けていくことの孤独。早稲田の路地を歩くスガの後姿に、彼方に向かって糞を転がしつづけるスカラベサクレ(糞転がし)の姿が重ねられる…。

本日の夕刊

 本日の夕刊にブッシュ米大統領の就任演説の要旨が載っていた。その中でブッシュ大統領は「この国での自由の存続は、他国での自由の成功にますます左右されるようになった。世界平和を達成する最短の道は、全世界に自由を拡大することだ」とし、そのために「必要な時には、武力によって自らと友人を守る」としている。そして、「自由の究極的勝利を確信してわれわれは前進する。それは神の意志による選択だ。米国は新世紀の始まりにおいて全世界の人々に自由が行き渡ることを宣言する」とまとめている。
 まるで大航海時代におけるアジアの封建制を解放せんと意気込むカトリックの宣教師のような演説である。

 話は変わるが、創価学会の池田大作代表はフィリピン大学での講演会で次のように述べている。「自由」を「公正」という語に置き換えただけで、ブッシュ米大統領と学会のおせっかいな論理は非常に似ている。このようなありがた迷惑な親切心の押し売りは、黙って無視するわけにもいかず、断固とした拒絶の意志を表明することが大事である。

 ビジネスは、その本来の性格から、経済効率をあげ、利潤を追求することを第一義としています。もしビジネス人が事業に左右され、「企業の論理」や「資本の論理」しか眼中にないとするならば、行き着く先は、利潤をめぐる争いであり、それはしばしば戦争の誘因にさえなってきました。

 ビジネスが平和構築のために貢献をなそうとするならば、そうした論理を「人間の論理」のもとにリードせねばならないでありましょう。

 そのために何が必要か――。私は平和を志向するビジネス人の精神的バックボーンとして、端的に「公正」の精神を挙げてみたい。日本語の「公正」には、一方で「公平」や「平等」、他方で「正義」の意味が含まれております。

 興味深いことに貴国の言葉「カタルンガン」が、まさに日本語の「公正」の二つの意義、つまり「正義」と「平等」という両義をはらんでいるとうかがい、私は新鮮な感動をおぼえました。こうした「公正」な精神の持ち主は、経済活動によって、ともすれば富める国、富める階層がますます富み、貧しい国、貧しい階層がますます貧しくなっていくといった矛盾を決して見逃さないでありましょう。

 ビジネスの世界にあっても、一企業、一国のみの「部分益」に執着せず、地球人類という「全体益」に立脚しつつ、時には、自らの利害を超えた尊い自己犠牲さえいとわぬ「公正」な判断を可能ならしむるにちがいありません。