「ぴったり感」

本日の東京新聞朝刊に、女子少年院法務教官を勤めた魚住絹代さんの「ぴったり感」と題した思春期の子どもが使う言葉に関する話が載っていた。なるほどと頷くところも多く興味深かった。

子どもたちは本当に、深い意味なく「ノリ」で、「キモい」「うざい」「ムカつく」といった言葉を日常的に使う。黒板の字が見えないとき「うざ」。お弁当のおかずがこぼれたら「キモ」。携帯忘れたら「ヤバ、ムカつく」。
本来の言葉の意味や用途とは違うことに、子どもたちの言葉の感覚がまひしていると感じ、同時に、物事の受け止め方が両極端に単純化していることにも考えさせられる。子どもたちは、ちょっといいと思うと、「サイコー」「めっちゃイイ」と称賛するが、ちょっと違うと「キモイ」「サイアク」と全否定してしまうのだ。
基準は「自分」。自分の予想や思い、好きなこととぴったりであれば、「サイコー」と盛り上がるが、ちょっとでも自分と違うと違和感を覚え、切り捨ててしまう。さっきまでの「サイコー」「親友」も、瞬時に「キモい」「サイアク」「絶交」となってしまうのだ。そして、どちらでもない繊細なニュアンスは、ひとくくりに「微妙」という言葉で片付けられてしまう。

魚住さんは、そうした子どもたちの言葉の同調圧力の中で、大人以上に違いを許さない雰囲気が子どもたちの中に醸成され、居場所を見つけられない子どもがいると心配する。周囲に合わせてテンションを高くし、笑顔で周りの雰囲気を壊さないように必要以上に気を遣わざるを得ない子どもたちが増えていると指摘する。そして「安心して育ち、学び合える集団をつくるためにも、人との付き合い方、物事の受け止め方、気持ちの伝え方などのソーシャル・スキルを育む取り組みが必要である」と述べる。

『少年法』

澤登俊雄『少年法:基本理念から改正問題まで』(中公新書 1999)を3分の1程読む。
本論の途中から細かい司法手続きの話になって頭に入らなくなったので、全部すっ飛ばして残りの結論だけ読んだ。
昨今凶悪化していると報道される少年犯罪の実態を諸外国との緻密な比較を通して分析し、少年法改正を巡る保護主義と厳罰主義の実際的な運用と効果を丁寧に論ずる好著である(はずだ)。著者は、マスコミで声高に少年犯罪の危険性が叫ばれるが、日本の犯罪現象は諸外国に比べ非常に安定した傾向を持続しており、少年犯罪自体も諸国と比べよい状況にあると結論づける。その理由として少年法、少年裁判における教育的機能が有効に働いてきた背景があると述べる。
そして、マスコミの安易な少年犯罪の厳罰化論調に釘を刺し、これまで警察、家庭裁判所、家庭裁判所調査官らによって積み上げられてきた保護手続きを優先しながら、家裁調査官の位置づけをはっきりさせ、付添人や否認手続などの犯罪少年の裁判権を拡充するような具体的手立てが必要であると結論付ける。

保護主義と適正手続きとの関係について、両者の両立ないし調和のあり方について、実務で利用できるような具体的な準則をどんどん作り上げていくことが必要です。この問題は、従来から、家庭裁判所の機能として、司法機能とケースワーク機能があり、この両者の調和こそ保護手続の真髄であるように説かれてきたところです。

『アイデンティティの心理学』

鑪(たたら)幹八郎『アイデンティティの心理学』(講談社現代新書 1990)を読む。
昨年京都文教大学を退職した臨床心理学者の著者が、「モラトリアム」で有名なE.H.エリクソンの下で学んだ研究を踏まえ、人間の行動原理、生き方そのものについて論を展開する。著者はエリクソンの「アイデンティティ」理論を援用しながら、登校拒否や対人恐怖症、犯罪などに至る心理的構造を明らかにしている。著者は人間の全ての行動の根底には、自分を証明したいという否定しがたい動機があると述べる。

人は自分を何とかして証(あか)ししたいという根源的欲求に、抵抗できないほど強くひかれる。人生は自分にとって唯一回であって絶対に繰り返さない、従ってとり返しのつかないものだ、という自覚も、深く以上のことに根ざしている。僕たちは、人間が幾億人いようとも、自分であって絶対に他の人とは、置きかえられない人間にならねばならない。僕はこの人間存在の極限に追いつめられたことを喜び、また悲しむ。……
一人の人間が、誰とも同じ、何の特権もない一人の「人間」であって、しかもその同じ人が、自分は自分自身であって、他の何でもない、という個性のもつぎりぎりのものを意識した状態なのだ。

上記は森有礼初代文部大臣の孫にあたる森有正氏の言葉である。著者は、東大在職中にフランスへ留学しそのままパリに居残った異色の経歴の森氏の生き方を紹介しながら、人間の生き方は常に他人から与えられる「予定アイデンティティ」と自分の責任による「選択アイデンティティ」のせめぎ合いだと結論付ける。森鴎外の『舞姫』における太田豊太郎を彷彿させる見解である。

『僕たちの軍隊』

本日の東京新聞朝刊に、防衛庁の「省」昇格について、帝京大教授の志方俊之氏と軍事ジャーナリスト前田哲男氏のコメントが載っていた。
志方氏が国際情勢に合わせて改憲せずとも自衛隊の活動範囲を拡げよと述べるのに対し、前田氏は憲法9条(専守防衛)の枠を越える自衛隊法の改悪は認められないと訴える。前田氏も指摘する通り、問題の根底は防衛庁か防衛省かという看板の掛け替えではなく、自衛隊に国際協調という美名の下で海外出勤のお墨付きを与えることなのである。

そこで、前田哲男『僕たちの軍隊:武装した日本を考える』(岩波新書 1988)をざっと読んでみた。
「僕たちの軍隊」とあるが、その実態は米軍の指揮下に入った自衛隊であり、自衛隊に軍事技術を売り込む三菱や日産といった企業である。1980年代後半の本であるが、「ソ連」脅威論を振りかざすことでレーガノミクスに追随し軍拡に走っていた当時に対する著者の警鐘に目が留まった。

ここで日本の急速な軍事化をうながすもう一つの原動力、つまり日米安保協力を「エンジン」とすれば「ガソリン」にもたとえられる「ソ連の脅威」について検証しておこう。それなしにいくら防衛庁が笛を吹いても軍拡マーチが鳴りひびくことはなく、逆にいえば、最近における軍拡マーチの高鳴りは「ソ連脅威」キャンペーンが国民の間にひろがった結果だと考えられるからである。軍事大国になるのはいやだが、ソ連の軍事力はもっとこわい—これがごくふつうの日本人の考え方ではなかろうか。「ソ連脅威」キャンペーンは、こうした「素朴な不安」につけこんだ形で展開されてきた。だがそれは正しいデータと情報にもとづいたものだろうか。国民をコントロールするための、誘導キャンペーンではないのか? 誇張された「脅威」がひとり歩きして「善良な市民の不安」を増幅させているのではないか?
(中略)問題は、あたかもそれ(ソ連の軍事力)が日本の国土に対する直接の侵略の脅威であるかのように描き、安保協力の推進と自衛隊増強によって対抗できると思い込ませる政府・防衛庁のやり方である。

上記の文章を読んで勘の良い人なら気付くであろうが、「ソ連」を「北朝鮮」に置き換えてみると、そっくりそのまま現在の防衛「省」昇格の議論につながっていくのである。前田氏は自衛隊の前身警察予備隊が創設された時も、「共産主義の洗脳を受けた赤軍師団が、北海道のすぐ先の樺太に集結している」との大嘘キャンペーンが展開されたことをも指摘している。タカ派の人間にとって、今回の防衛省昇格は「金正日」様々であろう。また、そうした「金正日」像を意図的に作り上げてきたマスコミの仕掛人にも足を向けて寝られないであろう。

『教師よ! 教育基本法の精神にかえれ:教育の荒廃を正し、教育の反動化を阻止するために』

家の本棚に眠っていた、大海恵二郎『教師よ! 教育基本法の精神にかえれ:教育の荒廃を正し、教育の反動化を阻止するために』(1981)という自費出版?本を手に取ってぱらぱらと読んでみた。
その中で、著者大海氏は次のように述べる。

教育とは本来、教師と生徒の信頼関係の上に成立し、それは教師の生徒に対する「情熱」と「愛情」によって実を結ぶものである。その観点から考えて、教師は今一度自分が行なっている教育が教育の原点である(憲法)といわれる教育基本法の精神に則ったものかどうかを冷静に見つめ直すべきである。また、教育の反動化の波に対してもそれと真向から対立すべき勢力(日教組、民主団体等)が国民多数の支持と理解を得ることができないため有効な対応ができず、常に守勢に立たされている。私は日教組がかかげている「平和を守り真実をつらぬく民主教育の確立」を教師が誠実に実践してきていたならば、今日のような状態は生れなかったと思っている。(中略)私は制度的問題等を論ずる前にまず教師自身が反省の上にたった教育を実践すべきであるということを訴えたい。私の主張はこの点につきると思う。

日教組は教師の中にも反民主的(教育基本法の精神を理解しない)な教師がいることを素直に認め、このような教師の存在が生徒・父母の「信頼と尊敬」を損わしめ、「民主教育の確立」に対する重大な弊害になっていることを認識してほしい。また「民主教育の確立」に障害となる反民主的な教師に対しては、国民とともに告発するぐらいの気がまえがなければならないと思う。

大海氏は自分の枠組みだけで生徒を判断し、工夫も苦労もせず、問題が起きたら家庭や進学先に責任を転嫁する「反民主的教師」を職場から排除していく、引いては個々の教員が自己の教育を反省し、心の中に巣くう「反民主教育」の芽を摘むことこそが教育再生の第一歩だと説く。まさに正論である。知識を教えることに終始し、生徒を類型化、点数化して合理的に「処理」していくような教育こそが批判されなければならないのである。
はて、自分はどうなのか。まず隗より始めよということか。