『軍事同盟—日米安保条約』

山本皓一・松本利秋『軍事同盟—日米安保条約』(クレスト社 1996)を読む。
長い間本棚に眠っていた本であるが、普天間基地移転の問題が浮上している今、もう一度沖縄基地問題を頭の中で整理したいと手に取ってみた。日米安保条約の条文を紹介しながら、日米安保と日米地域協定に縛られる沖縄住民と在日米軍の日常生活を写真を交えて描く。改めて日米安保を読み返す良い機会となった。
ニュースなどで何気なく「キャンプ・ハンセン」や「キャンプ・シュワブ」といった名前を聞くが、「ハンセン」や「シュワブ」という名は、沖縄の土地の名前ではなく、太平洋戦争時の沖縄攻略の戦功者の名前であったことを知った。沖縄の置かれている状況を象徴している。リポートをまとめた松本氏は、日米の二国間の安全保障問題として捉えるのではなく、米軍の世界—アジア展開の意図と軍事の実際から考えていく必要を説く。

本日の東京新聞夕刊で、カーター元大統領のコメントが記事になっていた。カーター元大統領は、現ブッシュ政権に対して、「米国の根本的な価値観を完全にひっくり返し、ニクソン、レーガン、(父親の)ブッシュら歴代大統領が築いた政策から急速に離脱した」と批評し、「世界に害毒をまき散らした史上最悪の政権」と痛烈にこき下ろしたそうだ。さらにブレア英首相に対しても「嫌悪感を抱かせるほどブッシュ大統領に追随した」と述べ、「ブッシュ大統領の浅はかなイラク政策を一貫して支持したばかりに、世界に大きな悲劇をもたらした」と酷評したとのことである。では、何の根拠も信念もないまま米国を盲信する小泉前総理、阿倍現総理の責任は果たしていかほどなのか。

『楽しい創作入門』

三浦正雄『楽しい創作入門』(岩波ジュニア新書 1997)を読む。
執筆当時神奈川県立小田原城内高校(現小田原高校)教諭であった著者が、授業の中で詩や短歌に始まり、物語創作に至るまで、楽しく表現すること、そして、表現させる工夫が紹介されている。
高校生の口語による短歌や俳句、連歌作りや、漢詩の創作、さらには、生徒の好きな歌の詞の一部を改作したり、作詞にチャレンジしてみたり、また、ゴッホやマグリットの名画を観賞してそこから浮かび上がる情景を会話文にしたり、絵本を作ってみたりと、生徒のモチベーションを高めるような仕掛けを、生徒の創作例を交えてライブ感覚で説明されている。『羅生門』だけでなく、竹取物語など古典においても物語の続きを創作することで、古典に対する興味を深める例など、「すぐに使えるものばかり」であった。特に漢詩を創作させるというのは、一見、二の足を踏みがちであるが、文法含めて漢文に対する嫌悪感を取り除くよい機会となるかもしれない。
著者三浦氏は、創作をすることについて、単に国語の授業の質を向上させるだけでなく、次のような利点があると結論付ける。

現在、日本の社会は自分のことしか関心がないという個人主義の考え方の悪い面が目につくようになりました。人は一人だけで生きているわけではありませんから、さまざまな周囲に人々の考え方、感じ方を理解するための、想像力・思考力・感受性が必要です。「創作すること」を積み重ねていけば、想像力と思考力と感受性、そして内省心が育ちます。さらに、この国際化時代には、自分たちとまったくちがう文化・風土・生活様式の人々や国々を理解しなければなりません。そのためにこれまで以上に想像力が必要となります。また、海外の困難な状況で暮らす人々を思う感受性も大切です。もちろん、「創作すること」は、自分の心の中の世界に形を与えることですから、自分を客観的に内省することにもつながります。

『渡り鳥 地球を行く』

長谷川博『渡り鳥 地球を行く:セキレイ・ハクチョウ・アホウドリ』(岩波ジュニア新書 1990)を読む。
アホウドリ研究の第一人者として知られる東邦大理学部の長谷川教授の研究に対する熱い思いが綴られている。専門書ではなく、長谷川氏の子供の頃からの動物に関する飽くなき関心が、大学に入ってからは渡り鳥の生態の研究につながり、やがて、渡り鳥を保護するための自然環境保護に目が向けられていく過程が平易な文で書かれている。自然保護について世界中で政治的・経済的に喧しい論議が展開されているが、それには子供時分からの動物や自然に対する素朴な興味が醸成されなければ根本的な解決には至らないだろう。

こっちはえんえん飛行機を乗り継いでここ(シベリア)まで来たわけですが、鳥たちは平気で、自分の飛ぶ力だけでそれをやっている。日本で冬のあいだしか見られなかった鳥が、繁殖地で見られたのには興奮しました。鳥たちの生きている世界の立体像への、イメージが広がる感じでした。

□ 東邦大学 理学部 生物学教室(動物生態学研究室)長谷川 博 □

「なんとなく改憲?」

本日の東京新聞夕刊に、作家高村薫さんの「なんとなく改憲?」と題したコラムが載っていた。
憲法は国民が主権者であることを保証したものであるで、改憲の権利も国民全体が握っていると述べる。しかし、一票の格差を放置した上で、米国に突き動かされた一部の議員の勢力だけで安易に憲法を変えることができる今回の国民投票法のからくりを批判する。

憲法は私たちとともにあり、時代や社会とともにあるのだから、私たちが欲すれば、変えることはできる。しかし私たちには、いま憲法を変えるような理由があるか。アメリカと一心同体にならなければ困るような状況が、どこかにあるか。阿倍政権は、美しい国を連呼するだけで、国民のために憲法改正を急ぐべきことの合理的な説明をしていない。そういう政権にそもそも憲法をいじる資格はない。