夢枕獏『陰陽師:飛天ノ巻』(文藝春秋 1985)を読む。陰陽師の超能力をメインにするのではなく、クールな源博雅、そして、その源博雅に魅かれる安倍晴明の人物像がうまく描かれている。
また、「徒歩(かち)」「狩衣(かりぎぬ)」「舎人(とねり)」などの重要古文単語も出てくるので、古文の勉強にも良い。
『陰陽師「安倍晴明」超ガイドブック』
『あかちゃんのいる暮らし』
毛利子来『あかちゃんのいる暮らし』(筑摩書房 1983)を読む。
小児科医の専門的な見地から、ゼロ歳児の子育てについて、親が辛いと感じる育児は決して子どもに良い影響を与えないという考えのもと、ほどほどの子育て、楽しい子育てを提案する。
その中で、母親は他者がつけ入る隙のないピュアな母性愛を持つ存在であり、母親が子育てに全責任を持つのは自明のことだとする現代社会のあり方そのものに毛利氏は疑義を呈する
産みの母親が密着して赤ちゃんを育てるスタイルは、歴史的にみても国際的にみても、人類に普遍的なものではありません。むしろ大家族が共同して育てたり、母子の接触が少なかったり、里子に出したりしていた期間の方がずっと長かったようです。現代でも、集団保育や父親の関与の強い社会は世界に広くみられます。(中略)いま、母親が働きたく、あるいは働かねばならぬ事情で子どもを他人に預けるのは、そうした共同体の崩壊がもたらした核家族化のなせるわざでしょう。それを「母性愛の喪失」といって非難するのは、女を社会に生きる人間としてみていない男優先の思想からだと思います。そうでなくても「生産性がより高い」と認識される男性労働力を家庭で修復し、次世代の労働力である子を育てる機能を女性に押しつけようとしているところからきているにちがいありません。
『なぜ学校に行かせるの?』
寺脇研『なぜ学校に行かせるの?』(日本経済新聞社 1997)を読む。
学校現場から業者テストを廃止したり、総合選択制高校や総合的な学習の時間を推奨する「ゆとり教育」の第一人者であった著者の一番脂が乗っていた頃の著書である。受験教育を真向から否定する訳でもなく、生徒の自主性や個性を諸手を挙げて賛美する訳でもない。教員の本分は授業であり、生徒の向学心を引き出す「生徒が主役」の授業をきっちりと展開すべきであると述べる一方、本来は親や地域の領分である放課後や土日の過ごし方については学校がとやかく関わるべきではないと述べる。
残念なことに寺脇氏は昨年文科省を退職してしまったが、行政の側の発言としては整然としており的を得ていると思った。
『鳥の歌』
五木寛之『鳥の歌』(講談社文庫 1984)を十数年ぶりに読み返す。
確か高校1、2年生の頃に読んで以来である。高校時代に実家近くの駅前の古本屋で買ったものである。2冊セットで300円ほどで、ビニールに包まれており、開封する際にべりっと表紙のインクが剥がれてしまった代物である。
マスコミや警察が一体となってすすめる管理社会国家に真向から背を向けて、日本国内を放浪しながら日本語とは異なる文字と言葉を持つ全く新しい共同体を築こうとする《鳥の会》との出会いを転機として、新しい生き方に向かう人々を暖かく描く。ラジオ局で働く主人公の谷昌平の以下のセリフが印象的であった。
ぼくらは鳥籠の中の鳥みたいな存在じゃないだろうか。つまり、管理社会というか、組織社会というか、まあひとつ網目の中で限られた空間の中を、定められた飛び方でみんなが一斉に動いている、いや、飛んでるんじゃないんだ。羽を切られてぴょんぴょんはねているだけかもしれない。そんな世の中になってしまっていながら、ぼくら自身はそのことに気づいていない—まあ、そういう意味さ
五木氏は80年代の激化する管理社会に対して、声を挙げて反対するよりも、人間の素朴な心情を原理とするアナーキズムにも通じるようなオルターナティブな生活基盤を構築することを示唆する。
高校時代よりも深く読めたような気がする。


