『続・日本国の研究』

猪瀬直樹『続・日本国の研究』(文春文庫 2002)を読む。
石原都政の参謀を担う東京副都知事に著者猪瀬氏が就任したとのニュースに接し、本棚に眠っていた本を読んでみた。猪瀬氏というと信州大全共闘の議長を務めた経歴もあってか、ある程度左寄りな、自民党に批判的言論人だと思っていた。しかし、著作を読むと、大衆に幻想を抱かないインテリ政治家体質の民主党の小沢一郎を信奉し、特殊法人や公益法人の澱みを徹底して追求する小泉純一郎に賛同するなど、新自由主義的なスタンスを取っているようである。一方で、防衛庁の調達制度の無駄や、原子力政策の不備を付くなど、無理・無駄を追求する、その矛先は幅広い。文章の流れもスムーズで小気味よく読むことができる。

私なんかは税金の効率的な使われ方という観点から、防衛省や宮内庁、引いては天皇制度そのものを無くしてしまえば良いという考えなのだが、天皇制について、猪瀬氏は、慎重なのだか、適当な御託なのだかよく分からないが、次のように述べる。雇用促進事業団や社会保険庁に対して鉄槌を下す姿勢とは全く別物で奇異である。

現在の天皇家は危うい位置にいる。死者を包摂することがかなわない乾いた存在へと移りつつあるからだ。(中略)天皇家がおかれている現実的な環境は官僚機構の下請け”特殊法人”の位置である。天下りの巣窟で、役人が数年ごとに入れ替わるだけで、日本最古のファミリー、死と再生の儀式の司祭に対する処方箋を誰も本気で用意はしていない。
皇居が幻想としての墳墓であるのに対し、戦後憲法は”平和記念館”ということになる。三百万の死者、あるいはアジア二千万人の死者たちをひたすらそこに押し込めた。いつまでも不健全に宙吊りにさせた。戦後憲法は、死者の鎮魂のための祝詞として国民に迎えられたが、死者たちをかえって忘却の彼方に追いやったのである。
天皇制をなくしてしまえ、というなら、憲法もつくりなおせ、ぐらいの覚悟があってもよい。戦後体制の底に沈殿したタブーを掻き回すことでしか自己責任原理の文化はつくれない。

□ 猪瀬直樹オフィシャルホームページ □

子の成長

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1歳4ヶ月なんなんとする娘であるが、よちよち歩きの「二足歩行」にも少しずつだが慣れてきたようだ。もう少し歩けるようになれば公園に散歩に行けるのだが。
しかし、早く歩いてほしいという願う一方、まだまだハイハイのままの赤ちゃんでいてほしいという気持ちが入り混じる今日この頃である。

『羅生門・鼻』

芥川龍之介短編集『羅生門・鼻』(新潮文庫 1968)を読む。
芥川の「王朝物」第一集ということで、他に『芋粥』『邪宗門』など8編が収められている。今昔物語など古典をベースした文体で少々読みにくいところがあるが、テーマは人間の心理の妙をつくもので面白かった。『芋粥』の中で作者は次のように述べる。何気ない内容であるが、ふと心に染み入った。

人間は、時として、充たされるのか、充たされないのか、わからない欲望(芋粥を飽きるほど飲んでみたいといった類いの欲望)の為に、一生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。

『古伝空手の発想:身体で感じ、「身体脳」で生きる』

宇城憲治監修・小林信也『古伝空手の発想:身体で感じ、「身体脳」で生きる』(光文社新書 2005)を読む。
これまで30数年当たり前のようにあった自分の身体意識そのものが覆されるような、目からウロコが落ちるような内容で一気に読んでしまった。宇城氏は伝統的な型を重んじる心道流空手の師範であるが、現役のフルコン選手の突きを見事の見切り、反撃してしまう達人である。
宇城氏は頭で相手の動きに反応し、鍛えた筋肉を意図的に動かすような動きを否定し、呼吸を調え、気を身体に充実させ、気の統一体を作ることで、機先を制し、爆発的な力を得る事ができると説く。そして、そうした「身体脳」を鍛え上げる道標は空手の型の修業にあると述べる。
本書は、単に机上の空論のみが展開されているのではなく、随所に身体全体を統一して使う動きが紹介されている。試しにイラストの通り身体を動かしてみると、ものの見事に力みが抜けて、すーっと身体が伸びていくことが実感できて、大変興味深かった。武道に興味を持っている方に是非一読をお勧めします。
また、宇城氏は沖縄空手を単なる護身術や格闘技としてではなく、調和する社会に生きる人間をつくるためのものだと捉える。宇城氏の次の言葉が印象に残った。

沖縄は約600年前、北山、中山、南山の三山に分かれて対立していた時代に、国を統一するために武器を捨て、平和の道を選んだ歴史があります。この歴史から武器をもたない手、現在の空手が生まれました。これが空手のルーツです。人を大切にする、争わない手の歴史こそ沖縄の心です。
スポーツのようにルールの中で勝敗を競う相対的な世界では、真の技は身につきません。調和融合を求める絶対的な世界に身を置いて稽古してこそ、技の無意識化はできます。

『「自分の木」の下で』

大江健三郎『「自分の木」の下で』(朝日新聞社 2001)を読む。
週刊朝日に連載されたもので、中学生や高校生に向けて、学校論や教育論、人生論が展開されている。大江氏独特の高踏的な文章スタイルは控えめになっており、自閉症を抱えた息子の光くんを育てていく中で経験的に培った思いが寄せられている。

いま、光にとって、音楽が、自分の心のなかにある深く豊かなものを確かめ、他の人につたえ、そして自分が社会につながってゆくための、いちばん役にたつ言葉です。それは家庭の生活で芽生えたものでしたが、学校に行って確実なものとなりました。国語だけじゃなく、理科も算数も、体操も音楽も、自分をしっかり理解し、他の人たちとつながってゆくための言葉です。外国語も同じです。
そのことを習うために、いつの世の中でも、子供は学校へ行くのだ、と私は思います。

しかし、所々で、私のような不勉強な庶民をあえて寄せ付けないような文章も散見され、途中で投げ読みになってしまった。