池上彰『学び続ける力』(講談社現代新書 2013)を読む。
現在の自分にぴったりの本であった。
東京工業大学リベラルアーツセンター専任教授に着任した1年間の実践記録と、教養を学ぶことの意義がまとめられている。日進月歩の理科系では「すぐに役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」との言葉にある通り、常に学び続けることが大事であることはいうまでもない。と同時に、「すぐに役に立たないことを学んでおけば、ずっと役に立つ」のがリベラルアーツであり、教養と言い換えて良いと著者は述べる。
著者の授業実践の工夫も紹介されている。著者は毎回A4の紙一枚に、下記のようにキーワードを並べただけのシンプルなレジュメを作っているとのこと。講義の最初に「きょうの授業は、どんな流れでどんな内容を話すか」という見通しを示す「話の地図」になるからである。項目は大体6〜7個で、10〜15分で1つのトピックを話すことができる計算である。50分授業に換算するならば、3〜4個くらいであろうか。
また、例としてあげたレジュメには「アメリカは宗教国家」とだけ書いてある。これを「アメリカはキリスト教徒がヨーロッパから移ってきてつくった国であるがゆえに、キリスト教的な発想のもとにすべてがつくられている」などと書いてあったら、その文を読んで理解して分かった気になってしまうからである。そうではなく「アメリカは宗教国家」とだけ書いてあると、「えっ、どういうことかな?」と聴くことに集中してくれて、こちらが言いたいことが、伝わりやすくなるとのこと。
現代世界の歩き方 12 アメリカ大統領選挙を知る。
1 大統領と首相はどう違うのか 2 オバマの医療保険改革法、からうじての合憲判決 3 アメリカは連邦国家 4 大統領への長い道のり 5 アメリカは宗教国家 6 「ティーバーティー」対「99%」 |
著者は歴史について、以下「現在の自分と陸続きのものとして考えられるように追体験すること」と述べる。戦争や原発事故などの災害も同様である。いかに現在の社会や生き方に繋げ、言葉を超えたリアルな感覚として理解できるかが大切である。
「過去にこんなことがありました」と事実を教えて終わるのではなく、時代の空気を少しでも伝えられれば、と思うのは、歴史を学ぶということは、、追体験をどこまでできるかということだと思うからです。
歴史を学ぶというのは、ものごとの因果関係をきちんと知ることです。それを知ることで、これからの時代についても、推測したり、自分なりの考えが持てるようになったりします。
そのためにも、六〇年安保でも、六八年の反乱でも、当時こんなことがあったということを、彼らにその時代の学生になったつもりで追体験してもらってこそ、本当の意味での理解が深まると思うのです。
過去の歴史には、「なぜあの時、人々はあんなことをしたんだろう?」ということがたくさんあります。当時の空気を考えて、追体験してみようとすることによって、少しでも理解できるのではないでしょうか。そう思って当時の空気感を伝えようとするのですが、その難しさには、しばしば愕然とします。時には、教室に再現することはできるのかな、とも思いますが、少しでも歴史を自分と陸続きのものとして考えて欲しいのです。
最後に著者は、自分の拠って立つ地平を確かめ、問い直し、変えていく原動力が教養であると述べる。
「決められた枠組みで、決められた問題を、いかにエレガントに素早く解くか」という力だけでは、「いまの社会で何が問題か?」と、問題そのものを自分で設定しその答えを自ら探していく、という状況には対応できない。
問題設定そのものを自らしなければいけない、決められた解が存在しない典型的な課題が、原子力発電の問題である。これから原発をどうしていくのか、優先すべきは経済合理性なのか安全性なのか。原発の技術開発をどう考えていくのか、さまざまなオプションの中で何を決めていくか。理系の専門知識だけでも、文系の経済知識だけでも、解は出てこない。既存の枠組みを一歩も二歩も踏み出さなければ、対応できない。(中略)
教養=リベラルアーツの、リベラルとは、さまざまな枠組みから自由になることである。
では、どんな枠組みからどう自由になることなのか。
まず、それを考えること自体が教養の第一歩である、ということ。
そして、これまでの常識が通じない、変化の激しいいまのような時代においては、教養こそが次の解を出すための実践的な道具になり得る、ということ。であるがゆえに、教養を身につけたからには、傍観していてはだめで、社会に対して、積極的にコミットする、参加する、関わっていかなければ、真の教養人とは言えない、ということだと。