内田健三『戦後日本の保守政治』(岩波新書 1969)をぱらぱらと読み返してみた。
55年体制構築前後の自民党政治が丁寧にまとめられている。大学時代に読み通した本であり、先ほど読んだ全学連と真逆の側の話なのだが、時代が同じだったので手にとってみた。学生が真摯に直向に佐世保や羽田、王子などにおいて、国民の支持を受けながら闘争をつづけてきた中で、自民党は国民の批判の矛先が集中しないようにうまく(いやらしく)立ち回ってきた。
保守勢力は、かなり巧妙にこれらの危機を切り抜け、国民大衆の批判と不満をそらし、それをバックとする革新勢力の攻勢をしりぞけてきたといえよう。保守支配の貫徹のためには、時の政権担当者の首をすげかえ、弾圧から宥和へ、暴走から迂回への転換もあえて辞さなかった。その典型的なケースとしては、吉田から鳩山へ、岸から池田への政権移動をあげることができる。保守政治は、革新勢力の突き上げに硬軟両様の構えで対応し、同時に保守勢力内のむきだしの反動をセーブするという両面作戦―つまり“綱渡り”の統治技術―を駆使してきたのである。
また、内田氏は次のようにも述べている。
戦後保守のなかにたえず保守傍流、正統に対する異端ともいうべき系列があったことに注目する必要がある。それが保守合同以前の段階で、自由党内における鳩山―河野の党人派的系列、および自由党に対立する民主党系列に見いだされることもすでにこれまで折りにふれて言及してきた。
この保守傍流、異端の系列は、吉田自由党的本流に対抗する場合、大まかにいって、外交面では対米依存批判―自主独立外交、内政面では進歩主義的諸政策、体質的には党人派的感覚などをその特色としていた。とはいっても、この保守少数派はそれ自体錯雑した漠然たる集団であり、鋭い内部矛盾をもはらんでいた。
55年体制時には、自民党内部に「本流―傍流」のまっとうな対立軸があったが、「自由民主」党から「民主」党部分が抜けて、「自由」党部分の「本流気取り」だけしかいなくなってしまったのだろうか。また、旧民主党の現民進党前原代表のグループが保守傍流に位置づけられるのだろうが、本流と傍流の間に必要な転換がない。内田氏は保守傍流について「それ自体錯雑した漠然たる集団であり、鋭い内部矛盾をもはらんで」いると述べるが、この指摘は現在においても有効である。