日別アーカイブ: 2017年9月12日

『君たちはどう生きるか』

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫 1982)をパラパラと読む。
中学生のコペル君が自分の生活の中でふと感じた疑問から、数学の先生のヒゲが床屋につながり、粉ミルクがオーストラリアにつながっていき、時代や地域を越え、天文学や宗教学、歴史学をさまよいながら自分なりの答えを見つけ出す思想の旅日記である。
解説の中で丸山真男氏は、コペル君の科学的思考のプロセスに賛辞を送った上で次のように述べる。少々長いが引用してみたい。

天下り的に「命題」を教えこんで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのではなくて、逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法は、いうまでもなくデュウィなどによって早くから強調されて来たやり方で、戦後の日本でも学説としては一時もてはやされましたが、果してどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。いまや悪名高い、学習塾からはじまる受験戦争は、「知識」というものについての昔からの、こうした固定観念を前提として、その傾向が教育の平等化によって加熱されたにすぎず、けっして戦後の突発的な現象ではありません。そうして、こういう「知識」−実は個々の情報にすぎないもの−のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起し、その是正が「道徳教育への振興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、-そのイデオロギー的内容をぬきにしても-あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配にありません。

わたしはこういう奇妙な意味での「知育」に対置される「道徳教育」の必要を高唱する人々にも、また、「進歩的」な陣営のなかにまだ往々見受けられる、右と反対の意味での一種の科学主義的オプティミズム-客観的な科学法則や歴史法則を教えこめば、それがすなわち道徳教育になるというような直線的な考え方-の人々にも、ぜひ『君たち…』をあらためて熟読していただきたい、と思います。戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊の中に先取りされているからです。

丸山氏の指摘する、「コペル君の高度な問題提起がコペル君自身の自発的な思考と個人的な経験をもとに展開していく」ように、「じかの観察から出発して、そこからいろいろな物事を関連づけ、その意味をさぐってゆく、という方法」を体現する「社会科」に統合された本当の意味というのものをこれからも受け止めていきたい。

『イラクの小さな橋を渡って』

池澤夏樹・文/本橋成一・写真『イラクの小さな橋を渡って』(光文社文庫 2006)を読む。
イラク戦争開戦直前の2003年1月に刊行された本に付記のあとがきを加えて文庫化されたものである。
イラク来訪の理由を著者は次のように述べる。

 2001年の秋から、「ニューヨーク・タイムズ」は世界貿易センタービルの被害者一人一人の人生を詳しく辿る連載記事を載せた。テロでも戦争でも、実際に死ぬのは家族も友人もある個人だ。だからテロというものを徹底して被害者の立場から、殺された一人ずつの視点から見るという姿勢は大事だ。しかし同じ新聞がアフガニスタンの戦争のことは抽象的な数字でしか伝えない。アメリカ軍が放つミサイルの射程はどこまでも伸びるのに、メディアの視線は戦場に届かない。行けば見られるはずの弾着の現場を見ないまま、身内の不幸ばかりを強調するメディアは信用できない。だから自分の目で見ようと思ってぼくはイラクに行った。

そして、実際にイラクを訪れ、サダム・フセイン政権下で意外と豊かな暮らしを営んでいたイラク市民の姿を通じて、次のように述べる。

 イラクの子供たち、そして大人、彼らの普通に人間的な暮らし、それをぼくは見た。彼らのなかなかいい暮らしぶりに感心した。イスラム圏の多くの国の中で自分はここがいちばん性に合うと思った。本文にも書いたとおり、サダム・フセイン政権の独裁がどこまで国民を不幸にしているかを見届けることはできなかったけれど、すべての国民が監視社会の圧力の中で呻吟しているのではないかということはわかった。そして、自国の政権による圧制よりも他国から飛んでくるミサイルの方がより多くの不幸を生むだろうということも。

そして、米国によるイラク侵攻について次のように語る。

 今の事態をアメリカの利害という視点から見ると、すべてがあまりに明快になってしまう。アメリカを動かしている原理は中東のエネルギー資源の確保とイスラエルの存続という二つだ。そのためには中東にアラブ圏をまとめる指導的な国が生まれるのは好ましくない。だからイランにホメイニが登場した時はイラクを煽動してイランをつぶそうとした。しかしイラクが強くなりすぎるのも困る。そこで湾岸戦争に誘い込んでサダム・フセイン政権の力を殺ぎ、今は大量破壊兵器を理由に武力で倒そうとしている。イスラエルが核兵器を持っていることは誰もが知っているけれども、日本を含む西側諸国がそれを論じることはない。そういう状況のうちに、また何十万のイラク国民が殺されようとしている。

池沢氏が本書の中で繰り返し指摘するように、新聞やテレビで詳しく報じられる各国政府と国連とのかけひきから政治を考えるのではなく、まずは戦争の現場となる場所で暮らす戦争に関係のない子供たちと同じ視点に立って、大国のパワーバランスの犠牲になる国や地域を取り巻く状況を肌感覚で分析するということが大事である。

『ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか』

福田一郎『ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか』(青春出版社 2008)を読む。
アラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつドバイの経済から生活、風習、歴史、現状を幅広く紹介する入門書となっている。
アラブ首長国連邦というと、お金持ちの産油国というイメージしかなかったが、7つの首長国が集まった連邦国家であり、そのうち石油を産出するのは最大の国であるアブダビだけである。ドバイ首長国は官民あげて石油に依存しない産業の創出に勤しんだ結果、中東最大の金融・流通・観光の拠点となるまでに至っている。また、住民の8割以上が外国人であり、その半数をインド人が占めている。アラブとインドは別世界と考えていたが、アラビア海を挟んだ隣国同士であり、2000年以上前から人的交流が続いていたのである。
国全体がディズニーランドや高級ショッピングモールのようなイメージもあるが、ヨーロッパとインドのちょうど中間地点にあるという地の利を生かした金融や投資にも注目していきたい。

ドバイを中心としたグーグルアースの地図

『裏アジア紀行』

クーロン黒沢『裏アジア紀行』(幻冬社アウトロー文庫 2005)を読む。
カンボジア・プノンペンに住む著者が、「北斗の拳」の漫画に出てきそうなカンボジアでの荒れ果てた生活や、中国、ミャンマー、チベットなどを訪れた際の酒や猥褻、詐欺にまつわる裏話を語る。
「本当かいな?」と疑問符が頭を過るのだが、読みやすい文体で一気に読み終えた。チベットに関する文章が面白かった。言葉遣いは汚いが、それほど中国のチベット支配の悪汚さを表しているのだろう。

 チベットを実効支配するのは、かの中国である。占領から50年以上が経過した今もチベット独立運動は鎮まらず、業を煮やした共産党はチベット全土に数十万の軍隊を置き、ついに首都ラサまで鉄道を引いた。

中国系メディアによれば、「鉄道建設には環境的にも最大の注意を払い、野生動物を驚かさないよう静かに工事を進め、チベットカモシカの繁殖期には4日間、工事を中断してカモシカに道を譲り、工事現場の周りに草花を植えました」だのなんだの、美談のオンパレード。母親がボケ始めたので高級老人ホームに叩き込んでやりました。月15万円も払う俺は最高の孝行息子……みたいな論理である。工事中はともかく、列車にも道を譲らせるつもりなのだろうか?

某中国系新聞が誇らしげに掲載した、鉄道開通後の想像図がこれまた凄かった。ポタラ宮の周りに悪趣味な中国風高層ビルが林立するラサの未来。いかれてる……。