石塚正英編『十八歳・等身大のフィロソフィー』(理想社 1997)をぱらぱらと読む。
編者が当時教鞭をとっていた河合塾での「小論文」講座で、予備校生が書いた「小論文」150余点が収録されている。
浪人という高校でも大学でもない中途半端な時間や来年以降の身の振り方すら分からない不安、勉強しなくてはという強迫観念に追われるストレスなどが綴られる。また、そうした浪人だからこそ見えるような社会への不満や、実体験として感じる処世の難しさが1000字程度でまとめられている。起承転結の4段落構成を基本としており、どの作品も転句が読者の心に残るようなエッセー仕立てとなっている。なるほどと思った作品を一つ紹介したい
女は謎だ、とある男が私に言ったことがある。女は怖い、ずるい、よくわからない、彼の言葉は私に向けられながらも「女」に対しての男の実感のこもったつぶやきであった。女のハンドバッグと聞いて、まず思い浮かぶのはこのエピソードだ私が思うに、男が女を謎だと思うならば、女の常々持ち歩くハンドバッグをその女の象徴として、男は謎に思うのかもしれない。バッグの底にその女の秘密がひそんでいると感じるのは、見る者にとって謎めいた女のバッグこそが女のものなのであろう。その女の秘密が、その女の持つハンドバッグに重なり、のぞいてみたい衝動を起こさせるのではないか。
人間、男と女しかいないのだから、男が謎だと感じるのは当然といえば当然だ。しかし、女の私からしても確かに女は謎である。何より不思議なのは、秘密を持つことを、女は武器に出来るということである。女の謎は男にとって、魅力に一つであるらしい。反論もあるかもしれないが、そう言う男もいるのは確かである。
近年中身が見える透明なバッグが出回った。それでも、バッグの中のポーチまで透明なものを持つ女性は見ない。また、半透明なバッグも人気が出た。見えるようでいて、全て見えるわけではないという、考えてみれば謎めいた半透明のバッグは私もほしいと思っていた。自分のバッグの中身の全て見えてしまうのは気はずかしい。まるで自分を見透かされているような気分になるからである。街でバッグを買いに来ていた女性が「中身が見えるバッグってなんだかイヤ、苦手」と話していたのを耳にしたことがある。つまり女のバッグはそれを持つ女なのであり、女はそこに秘密を込めようとする。全て中身が見えてしまってはいけない。見えないことが、謎を残すことになり、その女への好奇心につながるであろうことを、女は意識的にわかっているのだ。
女は自分の謎−秘密をバッグに込めること、またそのバッグを持ち歩くことで女としての自分を男へと謎めかせている。バッグの中身が見えない限り、男にとって女は謎なのかもしれない。