上野一彦『LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)』(講談社+α新書 2003)を読む。
LDとADHDの実態と定義に始まり、正しい理解のありよう、海外での様子、教育現場での付き合い方など、ほぼ全部網羅した内容となっている。著者自身がLD学会の会長であり、東京学芸大学の副学長を務めていることから、小中学校の先生向けの入門書という性格が強い。そのため、著者自身の経験や失敗ではなく、海外での実践例や医学的な見地から、正しい理解・教育を提言するという内容となっている。
ただし、著者は「子どもの能力は皆同じ」とした徹底した「平等教育」では、逆にLDやADHDの子どもたちの弱点にばかり注目が集まってしまい、いつまでも彼らの特異な能力を生かせるような教育・社会は望めないという立場をとる。
現代は高度な管理と、そこに収まりきらない独創性のせめぎあう時代ともいわれる。相当なバランス感覚を要するはずの政治家も、はたまたノーベル賞を受けるような優秀な研究者でも、「変人」という言葉が、むしろこれまでの人々にはないスタイルの持ち主として、ある種の期待を込めて使われる。
「起業家コース」という新しい発想で作られた大学院の教授はこう語る。
「起業家のように創造性があり、チャレンジ精神に富んだ人材は元来個性的で、画一的な教育の枠のなかには収まりきらない。特に、差別につながるという理由で徒競走の順位付けをなくすような、今の日本の悪平等教育のなかでは、そうした才能は伸ばせない」
ADHDやLDといった特徴ある能力を個性として認める、自由でしなやかな社会こそが、明日のやさしさと創造性をもつ社会への道かもしれない。
また、学校での指導においての留意点について次のように述べる。
本人への(LDに関する)説明や告知と同時に、周囲への子どもへの理解の指導も大切である。LDやADHDの子どもがもつバランスの悪さは、周りの子どもには不思議な存在として目に映りやすい。彼らLDやADHDへの理解というのは同情や特別な支援ばかりではなく、できることは自分たちと同様に、あるいは優れた能力を示すこともあるということを伝えることである。どうしても同じ仲間を求めたがる年齢であるので、「みんな仲よくしましょう」といった形式的・表面的な仲間意識ではなく、ひとりひとりの個性や特徴を認め、伸ばすことの大切さを教師自らが実践しモデルを示すことがもっとも効果的である。
私を含め、古い教員の一部には、教員の目線でLDやADHDといった生徒を「世話」をすべき「同情」すべき対象として捉えることが「進歩的」であるという間違った錯覚を持ってしまいがちである。重々に反省したい。