地上波で放映された、スティーブ・マックイーン主演『華麗なる賭け』(1968 米)を観た。
スティーブ・マックイーン演じる銀行強盗の仕掛人と、事件を捜査する保険の調査員の女性とのサスペンス恋愛映画である。お互い素性の探り合いがやがて恋愛へと発展していき、クライマックスでは、お互いが恋愛感情を引き合いにした賭けに打って出る。
男と女の性愛を象徴したようなチェスの場面など、大人の映画であった。
日別アーカイブ: 2013年3月29日
エレクトーンの発表会
本日は休みをとって、春日部文化会館で開かれた娘のエレクトーンの発表会に参加した。娘の演奏と歌の時間以外は図書館などで本を読んでいた。
それにしても、ピアノと違い、エレクトーンの演奏というのは、誰がどこのパートを弾いているのか全く分からない。一人でオーケストラ演奏やバンド演奏ができるというのがエレクトーンの面白さである。演奏している本人が「音を合わせる」楽しみを一番感じることができる楽器である。しかし、そうした楽しむための楽器をわざわざグレード試験やら肩肘のはった発表会形式で段階立ててしてしまうのは少し無理があるような気がする。
ちょうど桜が見頃であり、文化会館の2階から見下ろす桜はきれいであった。
『Twitter社会論』
津田大介『Twitter社会論:新たなリアルタイム・ウェブの潮流』(洋泉社 2009)を読む。
Twitterを
ツイッターが今後社会を、世界を変えていくのか。それは誰にもわからない。そもそもインターネットがどれだけ世の中を変えたのかという話もある。ただ、今現在、ツイッターというプラットフォームの上で同時多発的に起きていることを目の当たりにしたとき、そこに『世の中が動く」ダイナミズムがあるように思えてならないのだ。それは、筆者が社会に出る直前の大学生時代にインターネットに触れた「ネット第1世代」であることも多分に影響しているようにも思える。90年代半ばに感じた「ネットが持つ無限の可能性」を、今再びある種のノスタルジーも含めて、ツイッターに仮託しているのかもしれない。
社会なんてなかなか簡単に変わるものじゃない。変えるには、個人個人がリスクとコストを取って実際の社会で何かしら動く必要があるからだ。変わらないことに絶望していろいろとあきらめてしまった人もたくさんいるだろう。それでも人々が動くための一歩目を踏み出すツールとして、ツイッターは間違いなく優秀だ。何をあきらめてしまった人が、ツイッターを使うことで「再起動」できれば、少しずつ世の中は良い方向に動いていく。そんな希望を持ちたくなる、得体の知れない力をツイッターは持っている。
『そして俺は途方に暮れる』
女による女のための第2回「R‐18文学賞」読者賞受賞作、渡辺やよい『そして俺は途方に暮れる』(2004 双葉社)を読む。
女性向けの官能小説であり、過激なセックスシーンが続く。しかし、男性目線のエロ小説と異なり女性視点で書かれているためか、過激ではあるが恋愛における心模様がベースになっている。印象に残ったシーンを引用してみたい。自分が満たされ愛されている確認事項としてのセックスを蔑ろにする男性への恨みつらみが述べられ、女性の怖さを感じる表現が続く。
わたしは、暗い部屋の中にしばらくぼんやり立っていた。脚が震えてぺったりと部屋の真ん中に座り込んだ。心臓のばくばくいう音と自分のふうふういう荒い息が聞こえる。
「あああああああああ」
自分が号泣していると気が付いたのは随分たってからだ。あああ、寂しい寂しい寂しい。私のぽっかり空いたおまんこを埋めてくれるおちんちんがもうない。苦しい苦しい。誰が満たしてくれる。私を飢えさせ私を濡らしわたしをイカせてわたしをこんなふうに咆哮させるのはあの男しかいない。
そうだ、殺しておけば良かった。こんなすさまじい空漠が待っていると知っていたら、彼を殺しておけば良かった。そうして彼の肉が少しずつ腐るにまかせ、そのそばで思い切りオナニーするのだ。もう男はどこにも行かない。わたしの悦楽を見届けてくれる。やがて骨になり、どこかに飛び散ってしまって完全に彼の肉体が失せたら、わたしも死ぬのだ。そうだそうすれば良かった。