日別アーカイブ: 2013年3月24日

『対論』

 野坂昭如・五木寛之『対論』(1973 講談社文庫)を読み返す。
 文庫本の最後のページに、かつて実家の最寄り駅の近くにあった「ニューサンクス」という古本屋の値段の紙片が貼ってあった。今から40年前の本であるが、古本として購入したのも20年以上前の高校時代である。
 当時売れっ子作家であった野坂昭如氏と五木寛之氏の両直木賞作家同士が、「青春」「家庭」「服装」「金銭」といった12のテーマで自由に語り合う対談集である。特に「酒場」というテーマの対談が印象に残ったので引用してみたい。新宿や中野界隈で飲んだくれていた経験のある両者が、いつのまにか変遷してしまった酒場について論を交わす。

野坂:ただ今の若い連中、酒場で連帯を求めてんだが、ひたすら酒を求めてんだが知らないけど、理論から与えられるものに風俗的に身を任せるのに慣れていて、ある目的を持って酒場には来ないみたいなところがある。(中略)
五木:ところが、業界の再編成が進められて以来、そういった(大騒ぎするような)場がなくなっているだろ。僕らの頃は放歌高吟する場があったもの。今は一つには店も悪い。室内が、白いのがやたらに多くてロココ風のスナックじゃあね。
野坂:早慶戦の後で新宿にみんな集まっている。あれを見ていると、ぼく等の時には、それがいいとか悪いとかじゃ全くなくて、酒の飲めない奴もその日は飲むものだと思い込んでいる。ともかく飲んで反吐をはくわ、変な酔っぱらい方するわ、コマ劇場の前の水の中に飛び込む様なことをして、いわば若気の至りを方々でやっていた。今見ていると、かつて皆こういう風にやっていたからしかたなくやっているんだというみたいな印象が強い。「都の西北」唱っていても、もともと「都の西北」はそんなグループの象徴の歌でもなくなっているし、ギャアギャア騒ぎながらデモ風にスクラムくんではしゃいでいるけど、それも何だか空しい感じがしてしようがない。活気がないんだ。
五木:活気がない。
野坂:(中略)飲屋だとかも昔だと学割だとか、いつまでに払うとかあったけど、今はそういう場所もない。そういう意味で場所がなくなったから彼等がそうなっているのか、それとも彼らは最早そういう場を求めたくないのか。彼等はお酒に酔わなくてもすむんじゃないのか。車なら車で楽しめればそれでいい。ハモることの楽しさで十分に酔いしれることが出来れば酒なんか必要としない訳だ。五木の言う発想というのはぼくにはよく分かるけれども、今の延長の中でそこに加わるともう少し実利的なことがあるんじゃないかとか、あるいは女が簡単に引っかかるんじゃないかとか、例えばひたすら汚ないところでいぎたなく酔い痴れるという発想に、それほど今の若者達は憧れがないんじゃないかと思う。
五木:それはいくらそういう店を造ったからといって、お互いに水虫を移し合ったり、かいせんを掻き合ったりすることはやらないだろうな。だけど一つには、やはりそういう面白さを教えなきゃいけないんじゃないかという気もする。それにしても最近は、ただただ酒をくらって発散するというだけの、目的のない行為を嫌がるんじゃないだろうか。
野坂:まあ、目的というか、かくあるべき自分の姿を想定してことをやっている分には安心出来るけども、そうじゃないところで独り時間を過すということに慣れていないということだ。
五木:溺れることがないような気がするな。割合みんな冷静になって。つまり、魔に憑かれたように、あるいは何かに追い立てられるように、ただただそこに逃げ込んだりすることがないんじゃないか。(中略)

 この文章が気になった理由は、ちょうど先月のTBSラジオの討論番組「文化系トークラジオLife」のテーマが「夜遊び」というものであり、40年前のこの対談とほとんど同じ内容が語られていたからだ。ラジオの方は、司会の速水健朗氏を中心に、夜遊びの文化的な意義や、夜遊びの場の規定性に始まり、企業文化やネット社会論、都市論にまで話が広がっていった。その中で、

満開の桜

いよいよ春日部の桜も満開になった。東京都心に1日〜1日半ほど遅れたような気がするが、例年よりも早く見頃を迎えた。
日暮れ間近であったが、近所の大落古利根川沿いの公園に子どもを連れて出かけた。目の充血の時期と重なってしまったためか、いつもよりも淡い色に染まっている気がした。