月別アーカイブ: 2013年1月

『蛍火の杜へ』

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地上波で放映された、第66回毎日映画コンクールアニメーション映画賞受賞作、大森貴弘監督『蛍火の杜へ』(2011 アニプレックス)を観た。
触れると消えてしまう山の幽霊と、少女から大人へと変わりつつある少女との恋愛物語である。年を重ねるごとにお互いの距離が縮まっていくのに、最後の一線を越えられないもどかしさが上手く表現されていた。
44分という短い作品であるが、印象に残る映像と音楽であった。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=qXLSRH31Yao[/youtube]

『阪急電車 片道15分の奇跡』

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『悪の教典』を忘れるような映画を観ようと、地上波で放映された、三宅喜重監督『阪急電車 片道15分の奇跡』(東宝 2011)を観る。一見、阪急電車のプロモーションビデオのような内容であった。
絶望とまでは行かないが、他人には話せないような不幸感や孤独感を抱え込んで生きている人たちが阪急電車の車内で出会い、心の内を共有し、それぞれの道を行く心温まるエピソードが絡み合っていく。見知らぬ人でもちょっと声を掛けてみる勇気と思いやり、何か「ACジャパン」制作のドラマといった雰囲気の作品であった。
女優さんもほとんどが兵庫ないし関西圏出身のためか、演技も「上手い」というよりも、それ以上に自然な演技で良かった。女子高生役を演じた有村架純さんの魅力的な表情が印象的であった。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=l4e8BKOkYgo[/youtube]

『悪の教典』

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夕方に3時間ほど時間が空いたので、その空いた時間枠にたまたまララガーデンで上映していた、三池崇史監督、伊藤英明主演『悪の教典』(東宝 2012)を観た。
正直、あまりにショッキングな映像と音の連続で「観なきゃ良かった」と思った。普段は温厚な人物でありながらゲーム感覚で殺人を楽しむ快楽殺人者という筋立ては、アメリカのB級サスペンス映画ではよくあるパターンである。実際、猟奇的な犯人の残虐な性向や銃殺の場面をアメリカ人が演じるのであれば、あまり不自然なく眺めることができたと思う。しかし、海の向こうの風景を背景にしたものではなく、日本の高校生の日常生活と見慣れた教室や職員室を舞台にし、担任が生徒40人を次々に銃殺刺殺していくというのは、親近感を逆手に取った不快感しか生まれない。

スクリーンを観ながら、こんな嘔吐感を催すようなスプラッター映画が、R15指定の表示だけで日本のシネコンで公開されるということに驚きを禁じ得なかった。この映画を登場人物の設定と同じ年齢の高校生に見せてよいのであろうか。いや、殺戮を描きながら逆説的に生きることの尊さを醸し出す「芸術」作品が、大手から配給されるという日本の映画業界の懐の深さを賞嘆すべきなのか。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=10ssNsCJX2w[/youtube]

パンフレット研究:滋賀大学

何とも評価しにくい大学である。教育学部と経済学部の2学部あるのだが、交通の便も良く、それぞれ一定の評価を得ている。
1922年に設置された彦根高等商業学校と1875年に大津に設置された小学校教育伝習所の2つの流れが、戦後の教育改革で滋賀大学と看板を変えただけで現在も続いている。JR東海道本線の快速で40分足らずの距離だが、教員レベルでも学生レベルでも交流は薄く、教養教育も部活動、寮もそれぞれのキャンパスで完結している。

学長の佐和隆光氏自ら、「二つのキャンパスに分かれていることから、教育と経済という21世紀の日本を支える二本柱を学ぶ学生諸君がお互いに意見を闘わせる機会が少ないのを、私は遺憾に思っています」と冒頭で述べている。そこで学長は「情報通信機器を有効活用して両キャンパスの学生・教職員のコミュニケーションの緊密化を図」ると提言しているが、時間とお金の無駄であろう。

同じキャンパスで、同じ教室で、同じサークルボックスで飲み語ることにこそ大学生活の原点があるというのが私の考える大学のあり方である。その中で多彩な交流や幅広い教養と体系だった専門を学び、自分自身の力で自分を発見する場がキャンパスである。だから時間的にも空間的にもキャンパスは「度量」の広いものでなければならない。滋賀大学関係者には申し訳ないが、「一県一国立大学」の「駅弁大学」(大宅壮一)を生んだ戦後教育改革の残滓であろう。歴史的、地理的に分断された2つの学校間で連携を図るのは、どれだけ情報通信が発達しても意味がない。

いっそのこと彦根にある滋賀県立大学と、大津にある滋賀医科大学と大合併をして一大学となった方が、まだスケールメリットを生かせるのではないだろうか。従業員を何万人も抱える大企業が合併する時代である。県と国の垣根を越えることも難しくはないであろう。

パンフレット研究:高崎経済大学

1957年に高崎城跡地に開学した、比較的新しい大学である。wikipediaによると、戦後県内の師範学校や医学専門学校、工業高校などの官立の高等教育機関が前橋を中心とした群馬大学に集約され、高崎市が経済経営系の誘致を計ったが実現しなかったため、独自に大学設置となったようだ。
2000年には大学院修士課程、2002年に博士課程が開設され、現在では経済学科と経営学科からなる経済学部、地域政策学科、地域づくり学科、観光政策学科からなる地域政策学部の2学部で構成されている。

カリキュラムは極めて普通というか凡庸な内容となっており、少人数のゼミナールと充実した情報設備と英語教育、就職サポートが宣伝材料となっている。一番のセールスポイントは学費や家賃が安いということだが、都心の文系私大との差は百万ちょっとである。就職やサークル活動を考えたとき、100万円ちょっとの差をどうかんがえるか。

学長自ら「数少ない全国型公立大学として全国各地からのみならず国外からも多彩な学生が集まり、キャンパスは多様性に富ん」でいると謳っている。しかし、合格者のうち辞退率が50%から60%近くあり、必ずしも第一志望の大学とはなっていないようだ。また地元の推薦枠も少なく、付属高校からの進学者も少ない。都心の大学の後追いをしていては、公立大学という存在意義は薄れてしまう。全国型を追求するのであれば、むしろ群馬大学と合併というイバラの道も考えた方がよいのではないだろうか。