林信吾・葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ:「団塊世代」の登場と終焉』(平凡社新書 2009)を読む。
1958〜59年生まれの著者たちが10歳ほど上の団塊世代を批判するというトーンでほぼ論旨が貫かれている
団塊世代の代名詞ともなっている全共闘運動については次のように辛辣な視点で述べられている。
全共闘運動経験者の大半は、マルクスの『共産党宣言』くらいは読んだかも知れないが、『資本論』はまず確実に読んでいないだろう。あんな騒々しい時代に、腰を据えて『資本論』など読む時間があったとは思われない。三里塚だ佐世保だと東奔西走していた活動家ほどそうだ。
それでも「闘争」に支障はなかった。いや、そもそも行動原理として必要だったのは、マルクーゼの「疎外」であったり、マクルーハンの「情報操作」といった、感覚を表現するキーワードだけだった。
その上に、叩きのめされてもなお立ち上がる矢吹丈の姿であるとか、決死の殴り込みに行く高倉健の姿を勝手に「反体制」に置き換えた、なんとも単純きわまりない闘争理論だったのである。団塊世代は議論好きであると、よく言われる。たしかに好きなのかも知れないが、巷でよく耳にする彼らの議論とは、まるで「賎ヶ岳の七本槍」のような、学生時代の武勇伝や友情物語から一歩も出ていない水準のものが多い。体育会系のサークルにどっぷり漬かった学生時代を過ごし、社会に出てからもそのノスタルジー以外に語るべきものを持たないような人たちと、大差ないのである。
これもまた、彼らの行動原理とは子供にも分かる漫画で、その「吹き出し」にちょっと哲学用語や左翼アジテーションを入れてみただけなのではないか、と疑いたくなる理由なのだ。
筆者は、団塊の世代を「サブカルチャーにはじまり、終わった世代」「亡国の世代 やり逃げの世代」と称し、自分たちの世代が冷や飯を食わされてきたことを恨み節のように展開する。
世代でカテゴライズし物事を図るのは血液型と同じくらい短絡的な発想だと思う。しかし、私の身のまわりにいる現在60代前半から半ばの世代の方々をみていると、個人的には納得してしまうところが多々あった。