有島武郎『小さき者へ・生まれ出づる悩み』(新潮文庫 1955)を読む。
『小さき者へ』の方は、私の授業でほぼ毎年扱っているこなれた題材なのだが、『生まれ出づる悩み』は初めて読む作品であった。両作品とも大正7(1918)年に書かれた作品である。
同じ時代、同じ地域で生活しながら、片や生活の苦労に全く係うことなく暇を持て余す者がいる一方、片や生きるために一分の隙を見せずに身構えていなければならないような境遇に置かれる者もいる。その片方の側の不遇な生き方を強いられる一人の画家を目指す漁夫の日常を描きながら、日常からの逃避や自殺にも負けない生きること自体の力強さや素晴らしさを鷲掴みにする。
作者は作中人物をして、生活と夢の両立の難しさについて、次のように言わしめる。何か現在の自分の心境と重なっており、特に印象に残った。
俺が芸術家であり得る自身さえ出来れば、俺は一刻の躊躇もなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが……家の者共の実生活の真剣さをみると、俺は自分の天才をそう易々と信ずる事が出来なくなってしまうんだ。俺のようなものを描いていながら彼らに芸術家顔する事が恐ろしいばかりでなく、僭越な事に考えられる。俺はこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。皆んなはあれ程心から満足して今日々々を暮しているのに、俺だけは丸で陰謀でも企んでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの淋しさから救われるのだろう。
そして、最後は以下の言葉で苦界を生きる人たちを懸命に応援する。
君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。春が来るのだ。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春が微笑めよかし……僕はただそう心から祈る。