永松英吉・水谷光壮共著『体育原論』(原書房 1987)を読む。
初版は1968年となっており、おそらくは大学の教科書として用いられていたのだろう。文章を読むだけで、この本を基に展開されていたであろう退屈な授業が目に浮かんでしまう。体育というものを何かしら意義付けようとすると結局はスポーツマンシップとアマチュアリズムの2点に行き着いてしまう。
スポーツマンシップとは、精神と身体は一体のものであるというギリシア的な人間観に基づき、肉体を鍛えることで健全な精神が鍛えられるというロジックである。それは、後世肉体は汚れたものだとするキリスト教的な人間観が蔓延り、肉体を鍛えることは悪だとされたローマ時代に、「健全なる精神の健全なる身体に宿ることこそ望ましけれ」と、ギリシアの全人的な心身の調和を理想とした詩人ユヴェナリスの風刺的な言葉にも表れている。
また、アマチュアリズムは、簡単にまとめると、競技そのものを目的化し、相手や審判、ルールを尊重する・させることで、善悪の判断や規範意識を身に付け、身に付けさせ、人間性の向上と、豊かな生活と文化の向上を期すというものだ。
勝敗絶対主義と商業主義にどっぷりと漬かりながらも、こうした仮面を被る姿勢を取り続けるところに、スポーツ・格闘技ではなく、体育・武道の意味があるのだろう。
この本ではあまり展開されていないが、国家権力がどのように体育・スポーツを位置づけてきたかという視点で体育の歴史を俯瞰するというのは面白い研究になるであろう。体育は人間の身体そのものと密接に関わるものであるため、時の政府による体育の位置づけには、国家権力のむき出しな姿が顕れてくるはずである。