信原幸弘『考える脳・考えない脳:心と知識の哲学』(講談社現代新書 2000)を5分だけ読む。
心が脳を規定するのか、脳が心を規定するのかという哲学と脳神経科学の中間にある問題について答えを見つけようとする内容である。抽象的な存在である心が具体的な器官である脳の働きを司るのか、いや、脳のシナプスの働きが心の内容を規定するのか、といった「卵が先か鶏が先か」的な議論が延々と続く。読解力のない私にとって、認知科学は難しいということだけが伝わった。
月別アーカイブ: 2004年10月
『IT文明論』
玉置彰宏・浜田淳司『IT文明論:いまこそ基本から考える』(平凡社新書 2001)を読む。
インターネットやコンピュータのここ20年くらいの発展と、IT化によるビジネスや社会の変容を予測を交えて分かりやすく解説している。著者玉置氏は阪南大学経営情報学部の教授ということだが、ちょうど名前通り「経営情報学」といったような授業における新入生向けの入門書といった内容だ。刊行されてから3年も経ってしまうと読むべき所はないが、司馬遼太郎氏の引用は興味深かった。司馬遼太郎氏が著書『アメリカ素描』の中で文明と文化を次のように定義している。
文明は誰もが参加できる普遍的なもの、合理的なもの、機能的なものをさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので他に及ぼしがたい。
英語で”culture”と”civilization”は全く異なる概念であろう。しかし、日本語では「文化」と「文明」は一語しか違わず、どちらも知識や知恵を表わす「文」が入っており、ついつい混同してしまう語である。司馬氏の「文化」と「文明」を対立的に捉えるという指摘は面白い。
『家出のすすめ』
寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫 1972)をぱらぱら読む。
著者27歳の頃のエッセーのアンソロジーとなっており、ちょうどボクシングやギャンブルにはまっていた彼の一番脂が乗り切った頃の寺山らしい熱い思いが綴られている。「家出」を勧める寺山は、家族や大学、故郷といった因習を離れることで、真の自分を探し求めることを説く。
だいたい、人が十七歳をすぎて親許で精神・お金の両方のスネをかじっているのはシラミにも劣ることであって、農村で太い大根をつくろうとするにしても、都会へでて労働者になるにしても、「家出」を逃避じゃなくて、出発だとおもいこめるような力さえつけば、もう詠嘆することはないでしょう。わたしは、自分の存在を客観的に見つめ、「自分とは誰か」と知ることがまず、こころの家出であり、それによってはじめて、こうした口寄せを、現実と交わしあえるようになるのではないか、と考えるのです。
ともかく、わたしは自分を「それはわたしです」といい得る簡潔な単独の略号をおもいつきません。ましてや、先生が生徒に、「君はだれ? 何する人? って聞かれたら、すぐ大きな声で私は何々です、と答えられるような人間になりなさい」などと教えているのをみると、どうも不当なことを教えてるような気がしてならないのです。自分は自分自身の明日なのであり、自分の意識によってさえ決定づけられ得ない自発性なのです。
人は「在る」ものではなく「成る」ものだ、ということを書いた西村宏一のすぐれた詩をわたしは知っていますが……、わたしもまた、わたし自身への疑問符として自発性に生きてゆく、といったことを目指すべきなのではないでしょうか。
また生きて行く上の心構えとして次のように「怒る」ことを提案する。考えれば、わたし自身ストレスや不愉快な思い抱えることは多い。また仕事上怒ることもある。しかし、社会に対して、政治に対して、そして自分に対して「怒る」ということは減ってしまった。歳のせいであろうか。もっともっと「怒る」べきだ!!!!!
一日一回、怒りましょう。
もし怒るような腹立たしいことがあなたの身のまわりに何もないというなら、無理してさがしださなければいけない。よく気をつけて見ると、かならず「怒るべき」ことがあなたの周囲に何かあるはずです。それを見つけだして、怒鳴りつける。怒りは自動車のガソリンのようなものです。怒りは要するに明日への活力です。
内部に鬱屈したエネルギーを大切にしておいて、革命のときの武器にする……というならいざ知らず、不衛生な我慢のために、かえって「家」全体が暗くなるのは変な話です。社会に、人類に、家に、町に、自分自身に……あなたはもっと怒らなければなりません。(これを読み終わったらバリバリとひき裂いて「馬鹿なことをいいやがる!」というのでもよいのです。そのエネルギーがあなたの明日へ生きてゆくモラルのガソリンとなるのでしょう)
『タイム』
結果はパアであったが、これまでうやむやに過ごしてきた人生の良い意味での区切りになればよい。
深谷忠記『タイム』(角川書店 2001)を読む。
現実逃避がしたいという気持ちもあり、1050枚の長編推理小説を一気に読んだ。6時間近くかかったが、最後まで謎が分からず、どんでん返しが続き面白かった。作者の深谷氏の名前は知らなかったが、他の作品も読んでみたいと思った。
『平和のグローバル化へ向けて』
入江昭『平和のグローバル化へ向けて』(NHK出版 2001)を速読で読む。
『NHK人間講座』において放送された番組のテキストをもとにしたものであるためか、語り口が最初から最後まで徹底的に平板であるためかえって読みづらかった。しかし著者の主張は平易で、一国単位で政治や経済を考えるのではなく、地球という規模で歴史や社会を捉えるものが一人でも増えることで平和で安定した世紀が実現出来るという明快なものである。確かに、20世紀という100年だけを見れば、平和や民主主義、平等権、自由権の獲得と普及の度合いはその始まり比べて格段に進歩した。アパルトヘイトの解消や、女性の権利の向上、奴隷制度の撤廃、移動移住に伴う国籍の選択、発言や通信の自由など、多少の例外はあるにせよ、1900年よりは2000年の方がましである。
著者はそうした普遍的人権の向上の背景にグローバルな視点に立った政治の有り様を指摘する。第一次大戦の反省に生まれた国際連盟に始まり、第二次大戦の結果誕生した国際連合、1950年代の植民地解放に伴う第三世界の連携、そして1960年代におきた国際的な反戦運動、1970年代において爆発的に増加したNGO、1980年代以降の環境運動などを挙げながら、著者は連綿と自由と平等の概念が普及してきたその地平を確かめようとする。そして1930年代のファシズムや冷戦など逆風はあったが、そのようなグローバルな視野を持った勢力によって世界人権宣言が生まれ、人権思想や自由権が世界の隅々へ拡充してきたと述べる。しかし、1999年秋のWTOの方針に反対するシアトルでのNGOの蜂起や、2000年の春に起きたワシントンでのIMFに対するNGOのデモンストレーションなど、アメリカ的なグローバリズムの拡充が必ずしも幸福を生んでいない現状にも触れており、バランスの良い内容となっている。