月別アーカイブ: 2004年10月

『こんな小学校をつくります。』

那須野泰『こんな小学校をつくります。:新しいエリートを育てる』(グローバル教育出版 2003)を読む。
埼玉県の東部に位置する開智学園総合部(小中高一貫教育)の開設前の、おそらくは保護者向けの企画書となっている。そのため「クリエイティブなアナログ人間」や「学びのスタイルとしてのワークショップ」、「主体的な行動と発見のための場」「情報+デザイン=情報美術」といったソニー顔負けの宣伝文句コピーが並ぶ。
小学校設立の準備室長である著者は、6・3・3の硬直化した同年齢の輪切りの教育制度では子どもの能力を伸ばしきれないと「4・4・4制」を導入し、新しい「エリート教育」を提案している。北海道大学医学部で認知心理学を教える澤口俊之教授の理論を支柱にしながら、小学校1年生から「生活・能力開発型」の4年間を送り、次に5年生から「教科・知識習得型」の4年間、そして中学3年生から「専門型・大学進学型」の4年間と、12年間を4年という期間で区切りながら、習熟度別授業の早期導入や少人数制、フィールドワークなど私学ならではの進学体制を売りとする。学童保育、幼稚園での指導を経て、静岡県の養護学校(小学部)で教員をしていた経験だろうか、小学校1年生から4年生までの異学年齢で学級を構成したり、自学自習を超えた自分なりの学びの時間である「パーソナル授業」、米作りや演劇をカリキュラムに据えるなど、新しい学校というよりも、新しい教育制度を提唱している。著者のアイデアの大半は「幼稚園教育要領」や特殊教育諸学校における「個々の生徒に応じた学習計画」や「自立活動」をベースにしている。ちょうど100年ほど前、澤柳政太郎が作った成城小学校や小原国芳が作った玉川学園といった大正自由教育に対する憧れをうまく絡めながら、進学校としてまとめようとしている。
これから出来る私立小学校はこの開智学園総合部をどのような視点で捉えていくのか問われるであろう。それほどの内容を持っている教育体系を備えている。

今の若者のクールを気取った生き方、人間関係で余分な軋轢を避け、希薄な友人関係を好む傾向も、以前、地域社会にあった異年齢で構成するコミュニティーの喪失が最大の原因ではないかと考えます。地域に異年齢の集団があった時代には、学校は教科だけを教えていればよかったのです。道徳や社会性などは地域社会で自然に学習できたからです。
集団生活のなかで上下関係を学ぶ機会がなくなった現在では、学校がそのような機会や場を築いていく必要があるのです。それが総合部ではじめる異学年による学級集団=異学年齢学級です。学校生活の母体となる学級を異学年の集団で構成することが、今、まさに重要な意味を帯びてきたのです。

『吾輩は【黒帯】である』

林信吾『吾輩は【黒帯】である:日本人拳士ロンドン道場痛快修業記』(小学館 2000)を読む。
『月刊少林寺拳法』の1996年1月号から1999年の10月号まで連載されたエッセーに加筆訂正を加えたものである。少林寺を日本でわずか1年半ほどしかやっていない著者がイギリスに留学した折、ふと立ち寄った少林寺拳法のロンドンの道場でのカルチャーショックがうまくまとめられている。イギリスと日本という文化の違い、そして精神修養を売りとする少林寺拳法と、派手な技を好み合理的なとらえ方をするイギリスの二つの文化の摩擦、そして日本ではまだまだ練習中の身であるにも関わらず「ブラックベルト」を締めているということで指導者の側に回らざるを得なかった著書の内面的なすれ違いなどが軽妙に語られる。そして少林寺拳法を含めた武道のありようについて以下のようにまとめる。

たまたま少林寺拳法という趣味を持ち合わせていたことから、ヨーロッパ各国の道場を訪ね歩く経験をしたわけだが、そこで学んだことを一口で言うなら、精神を失った武道は存在価値がない、ということだった。
国際化とか、世界に通用する日本人になろうとか、よく言われていたけれども、自分たちの精神文化をないがしろにしているような国民が、世界で認められるはずはない。
反対に、この頃はどういうものか、日本人であることに誇りを持て、だとか、国のためにどうだとか言う人が増えてきているようだが、見当違いなことを吠えるのはやめてもらいたい、と思う。僕は日本人であることに誇りを持っているし、サッカーの試合などで日本が勝てば大感激するが、だからと言って、単に日本人であるという理由だけでもって、外国人と比べてなにか優れているなどとは、考えたこともない。
異なる文化と歴史を背負って生きてきた外国の人達に対して、精神的になにかを与えることのできる日本人になってはじめて、日本人であることに誇りが持てるのであって、その逆ではないだろう。
人、人、人。すべては人の質にある。
少林寺拳法の開祖宗道臣の言葉である。子どもに何を教えるか、ではなく、いわんや、どんな教科書を与えるか、などということでもなく、次の世代を背負う子どもは、どんな人間にならなければいけないのか。真剣に考え直す時期が、今、来ていると思う。

『大河の一滴』

五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎 1998)を読む。
親鸞や蓮如についての著作も多い五木氏は、自殺や神経症が増える世相において、等身大の自分に真摯に向き合い、スーパーマンでも女優でもないごくごく普通の人間でしかない自分を素直に受け入れることを提案する。人と比べて、兄弟と比べて自分を計るのではなく、自分の尺度で自分のあり方を見定めることを滔々と述べる。説教臭い五木氏の最近の著作は好きではなかったが、現在のように逼迫した状況に置かれると、ついつい頷きながら読んでしまう。

ぼくらは、人間は努力して世のため人のために尽くし、そして名を上げ、という明治以来の出世主義そのものをストレートではないにしろ受けとめ、なにかやるということを大切に思って育ってきた世代です。しかしいまあらためて考えるとき、なにもやらなくてもよい、失敗した人生であってもよい、それはそれで、人間として生まれてきて、そして人間として死んでゆく、そのことにおいて、まず存在に価値があるのだ、と思うことがある。

『「職員室」の心の病』

大原健士郎『「職員室」の心の病』(講談社 1997)を読む。
学校の先生に多い神経症やうつ病の治療を通して、浜松医科大の精神科医の著者が、「先生」と呼ばれる職業に共通するストレスや不安、強迫観念を主観交えて分析する。
とかく先生なるものはストレスが多いという話はよく耳にするところであるが、神経症や心身症といった非精神病だけでなく、統合失調症やアルコール依存症といった実際的な病気になってしまうものも多いということだ。これまで学校や教室は保護者や同僚から良くも悪くも閉ざされてきた。教員は他と比べられることなく、自由に授業のペースを作り、生徒と関係を築いてきた。しかしそうした閉鎖的な空間が「学級崩壊」の原因であり、「学級王国」という弊害が指摘されるようになり、公立の小中学校を中心に「開かれた学校」へと転換しつつある。学外評議員なども学校や教室を取り囲む壁を破る目的で設置されている。しかし、そうしたオープンな授業参観や地域連携教育といった「開かれた学校」制度が、逆に、「ミスがあってはいけない」と生真面目な性格の持ち主が多い教員のストレスを増大させているという側面もあるだろう。

『アルジャーノンに花束を』

ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(早川書房 1989)を読む。
前から読もう読もうと思っていたのだが、時間の都合上、本棚で埃をかぶっていた本である。しかし手に取ってみて、世の中にはこのような本があったのかと、目から鱗がこぼれるような思いである。人工的に知能を高められたチャーリィ・ゴードンの知能を読み書き能力の向上に伴う喜びの経過報告に始まり、究極の知能を手に入れた後、また元の「精神遅滞」の状態へと戻っていくまでの恐怖と悲嘆の報告でもって結末を迎える。チャーリィの愛に飢えた孤独を緻密に描きながら、逆に愛や友情とは相容れない人間の差別感情を浮き彫りにする。