読書」カテゴリーアーカイブ

『末期ガンになったIT社長からの手紙』

藤田憲一『末期ガンになったIT社長からの手紙』(幻冬舎 2006)をパラパラと読む。
タイトルそのままで、末期の胃がんが再発し、余命3ヶ月と宣告された著者が、自身の仕事や結婚の問題を赤裸々に語る。「夜明け前が一番暗い」の言葉を信じて、入院中も仕事をこなし、5年ぶりの休みを貰ったと趣味に満喫する姿は、同じ病に苦しむ患者に希望を与えるものであろう。
2006年6月に刊行された本だが、同年10月に永眠されている。展開を無視して書き連ねた内容でかなり読みにくいが、その分だけ著者の切迫した状況が伝わってくる。

抗ガン剤は基本的にガンを殺す薬ではありません。ガンと通常の細胞を薬は判別できないからです。ガンは通常の細胞より早く分裂して増殖します。ですので、抗ガン剤は分裂の早い細胞を殺すのです。したがって、抗ガン剤はガン細胞以外の分裂の早い白血球や毛髪などの正常な細胞も殺します。白血球を殺すことにより免疫力を下げることになり、感染症などで死んだりという副作用が起きます。

『クルマ・20世紀のトップランナー』

星野芳郎『クルマ・20世紀のトップランナー』(岩波ジュニア新書 1987)をパラパラと読む。
1894年にパリ郊外で行われた125kmを走る自動車レースには、ガソリン自動車が14台、蒸気自動車が6台、電気自動車が4台出場している。当時から鉛蓄電池を搭載した電気自動車がかなり走っていたという事実に驚いた。

また、イギリスの競馬には国王陛下、女王陛下が参列する。それは中世では馬が戦争の勝敗を決めたことに由来する。日本だと競馬はしばしば品位の低いもののように受け取られるが、ヨーロッパではきわめて品位の高いものとなっている。

非常に急なカーブのことをヘアピンカーブというが、それは女性が髪に挿すピンの頭のところの曲がり具合が非常にきついことに由来する。

最後の章で、著者は車がリビングルームであり、個人がくつろぐ空間となっていることを認めつつも、車が居住地内部に入ってこられないようにした上で、徒歩圏内で日常の用が済むようなコンパクトシティのあり方も提案している。

『日本語は年速一キロで動く』

井上史雄『日本語は秒速一キロで動く』(講談社現代新書 2003)をパラパラと読む。
著者は東京外国語大学で長く言語学を研究していた学者である。本書では「ジャカマシイ」や「センカッタ」「ケンケン」「〜シナイ」などの方言がどのように他地域に伝播していくか、詳細なデータをもとに分析した労作である。言語地理学の分野の研究になるのであろう。

そうした中で、マスメディアの影響も含めて方言は均すと年速1キロくらいで拡大していくことを明らかにしている。さらにはインド=ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大についても、小麦栽培と結びつけて年に1キロという似た速度で西進していったことも紹介されている。またモンゴロイドがアジアからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸北端に渡り、南アメリカ大陸南端へ達した過程も、5万キロに5万年かかったとすると、ほぼ同様の速さとも言えると述べている。

言語・文化の伝播とそれを担う人間自体の移動は別問題のはずだが、1世代あたり30キロ、つまり年速1キロほどに落ち着くのだろうと結論付けている。

『みんな地球に生きるひと』

あぐねす・チャン『みんな地球に生きるひと:出会い・わかれ・再見』(岩波ジュニア新書 1987)を読む。
昔読んだことあるなと思いながらページを繰った。香港出身のため、キリスト教の教えを受け、日本やカナダへも自由に留学ができ、中国国内や米国にも出向くことができていた。また、中国や米国に対して自由に発言ができていた。そうした自由な香港がなくなったという歴史の流れを感じる一冊であった。

『卓球・勉強・卓球』

荻村伊智朗『卓球・勉強・卓球』(岩波ジュニア新書 1986)を読む。
著者は日本代表として世界卓球選手権で計12個の金メダルを獲得し、日本卓球界の黄金期を代表する選手として活躍し、第3代国際卓球連盟会長も務めた卓球界最大の功労者である。

府立十中から都立西校に移行した一期生であったため、卓球部を創設するところから話が始まる。1948年の敗戦直後で、体育館に屋根がないので雨が降ればザーザー水浸しになるところであったにも関わらず、校長と掛け合って部活を創設する。また、選手になってからも日本を出発してから85時間ぐらいしてウォーミングアップなしに試合をした経験など、およそ現在では考えられないエピソードが満載である。

著者は1960年代に、中国・周恩来総理の招きで、中国の卓球のコーチを引き受けることになる。しかし、当時は中国の漢民族のレベルの高い家庭の婦人の間には纒足の習慣が残っており、女性のスポーツはあまり普及していなかった。そうした旧弊的な文化とも付き合いながら著者は卓球を熱心に指導していく。

また、面白い話として、1960年代のオリンピックには台湾が中華民国として出場していたので、中国は出場することが許されていなかった。Wikipediaで調べたところ、中国のオリンピック参加は1980年以降である。そんな状況ではあるが、たまたま卓球は台湾が加盟せず、中国が加盟していた唯一の国際競技団体であったため、中国政府も卓球を通じた外交を展開していたというのだ。歴史の裏が垣間見えた気がした。