投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『学問への旅』

森本哲郎『学問への旅』(佼正出版社 1985)を読む。
森本氏というと海外特派員の経験を生かした文化論学者かと思っていたが、戦後まもない東大の大学院哲学科でカントを研究しており、当時花田清輝氏や武井昭夫氏とも親交が深かったという事実を知り驚いた。

人間にとって何より大切なのは、じつは「つまらぬ」時間であり「あきあき」するようなひとときなのである。なぜなら、こうした退屈な時間こそが人間を考えさせ、おもしろいことへの探索へと駆り立てるからである。退屈な時間をどのようにして面白い時間に仕立て直すか、それが創造行為への第一歩なのである。現にデンマークの哲学者キェルケゴールは「退屈する人間」こそ高貴な人間であり、退屈というものを知らない人間というのは「最もがまんならない」下品な人間だといっている。退屈しない人間はついに自分で何も生み出すことができないからである。
そんなわけで、私は退屈を知らない現代の子どもたちを可哀そうに思う。彼らはすべての時間を大人たちによって与えられたもので過ごし、退屈のあまり自分で何かを探索し、工夫し、創造することをまったくしない、いや、できないでいる。逆説のように響くかもしれないが、このように人びとを退屈させないようにできている世の中というのは、実は文化の貧しい世界なのである。

『ダウン症の子をもって』

正村公宏『ダウン症の子をもって』(新潮社 1983)を読む。
タイトル通りダウン症の息子を抱えた両親と施設との日々の成長の記録を綴った『連絡帳』がベースになっている。「私は機動隊。彼は全学連。」と正村氏が述べるように、多動性を抱えた息子との奮闘記である。作者は、ダウン症に伴う精神遅滞という「治る」可能性のきわめて薄い病気を抱えた親の立場から、家庭教育や福祉の原点を追求する。「この子をあとに残しては死ねない」という気持ちは、障害の子を持つすべての親がいつも胸の奥底に抱き続けているものである。「私は、死ぬときにはこの子を連れていきますよ」というように語る親も少なくない。親が健在の内は愛情で片づく話も、「親亡きあと」を考えると現在の日本の福祉の現状では恐怖感は拭えない。

障害の子にとっての「自立」とは、ある達成された状態を意味しているのではないと私は思う。それはこの子たちの「可能性」を求めるたえまない努力の方向を意味しているのだと考えている。私は、そうした私の気持を、いくらか気取ったいい方であるが、「可能性の哲学」と呼ぶことにしている。私は、「可能性の哲学」こそが、障害者福祉の基本思想でなければならないし、もっと一般的に「福祉社会」の基本思想でなければならないと思う。いや、それは、私たちの社会がより人間的であるための基本的な要件なのではないかと私は考えている。

『前夜』

この頃疲れがたまっており、読書にも集中出来ない日々が続く。もう少しすれば楽になるであろうが。。。

季刊『前夜』(影書房 2004年10月秋号)の創刊号を少しだけ読んだ。
創刊宣言には「私たちは、戦争体制へと頽廃していく日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗の新たな拠点を築く。現在のこの状況はなぜ・どのように形作られてしまったのか。日本という一国家に閉ざされた枠組みではなく、東アジア、ひいては世界という広がりの中から、〈戦後〉の歴史を批判的に再検討し、〈別の道〉を模索する」とある。政治参加に対する手法としての文学ではなく、文化や芸術を頽廃する政治に対する抵抗の手段として対置するものである。高橋哲哉氏は創刊に向けて「哲学は抵抗たりえるか?」の中で次のように述べる。高橋氏の指摘する戦争前夜体制を構築する側の正体が分かりやすくなったのは、中曽根政権以後の、総評解体、社会党終焉が続いた92年以降であろうか。少し長いが、引用してみよう。

日本社会のあらゆる領域で「地金」(天皇制と天皇制をを支えてきた新自由主義と新国家主義的勢力)の解体がなされなかった。「55年体制」と言われたころはまだ曲がりなりにも存在していた「革新」勢力が、いまや壊滅状態になっているために、その「地金」が露出してきて居直りはじめている。
この動きに対して「抵抗」を持続するためにどれだけのエネルギーヶ必要かを考えると、私もまったく楽観的にはなれないのですが、でも見方を変えれば「暗い未来」ばかりでもない。「地金」が剥き出しになってきたということは、私たちが何を相手にしなければならないのか、何を変えなければならないのかが明瞭になってきたということです。この国と社会にあって何が本当の「問題」なのかを、これまではメッキが覆い隠していた。戦後民主主義や平和主義への甘い幻想が崩れて、本当の「問題」に直面せざるをえなくなった状況を、私たちの「抵抗」と闘いにとってプラスの価値に転化させたいものです。
1945年以前も以後も、東アジアの民衆の「抵抗ーレジスタンス」がどれだけの苦難を乗り越えてこなければならなかったかを思えば、日本人が敗戦によって一夜にして民主主義や平和主義者になれたと考えるのは虫が良すぎる気もします。60年代末に森有正は、自分は「新憲法」を支持するけれども、日本人はあの戦争に本当に抵抗した少数の人びとの「苦闘」に学ばなければ、「戦争に負けたおかげで出来上がった法律や平和運動はやがて吹きとんでしまうであろう」と辛辣に述べていました。「地金」に対する「抵抗」の闘い、それを本当に変えるための闘いには歴史的な意味があり、私たちはいまもそれに直面しているのと思うのです。

ブッシュ政権の戦争の論理を支える新保守主義的シンクタンクである「米国の新世紀のためのプロジェクト」に対する「ブラッセル法廷」という裁判運動を展開しているリーヴァン・ド・コトとつい先日亡くなったジャック・デリダ氏の対話が興味深い。デリダ氏は「いま現在、私たちはまさしく、主権的「国民国家」の傲慢かつ覇権主義的な肯定と、一団のグローバルな経済勢力との結託に直面しています」と述べ、米国の新保守の元凶であるシンクタンクを表舞台に引立てようとする「ブラッセル法廷」運動に全面的な賛意を示す。これまでデリダというと「脱構築」の人というイメージしかなかったが、世界観はなかなかしっかりした人物だったようだ。

『脳の話』

時実利彦『脳の話』(岩波新書 1962)を読む。
40年以上も前の話なので、データとして古いところあるが、心の在処を巡る研究が心臓から脳、そして大脳皮質へと移ってきた脳の研究史が分かりやすくまとめられている。

『こんな小学校をつくります。』

那須野泰『こんな小学校をつくります。:新しいエリートを育てる』(グローバル教育出版 2003)を読む。
埼玉県の東部に位置する開智学園総合部(小中高一貫教育)の開設前の、おそらくは保護者向けの企画書となっている。そのため「クリエイティブなアナログ人間」や「学びのスタイルとしてのワークショップ」、「主体的な行動と発見のための場」「情報+デザイン=情報美術」といったソニー顔負けの宣伝文句コピーが並ぶ。
小学校設立の準備室長である著者は、6・3・3の硬直化した同年齢の輪切りの教育制度では子どもの能力を伸ばしきれないと「4・4・4制」を導入し、新しい「エリート教育」を提案している。北海道大学医学部で認知心理学を教える澤口俊之教授の理論を支柱にしながら、小学校1年生から「生活・能力開発型」の4年間を送り、次に5年生から「教科・知識習得型」の4年間、そして中学3年生から「専門型・大学進学型」の4年間と、12年間を4年という期間で区切りながら、習熟度別授業の早期導入や少人数制、フィールドワークなど私学ならではの進学体制を売りとする。学童保育、幼稚園での指導を経て、静岡県の養護学校(小学部)で教員をしていた経験だろうか、小学校1年生から4年生までの異学年齢で学級を構成したり、自学自習を超えた自分なりの学びの時間である「パーソナル授業」、米作りや演劇をカリキュラムに据えるなど、新しい学校というよりも、新しい教育制度を提唱している。著者のアイデアの大半は「幼稚園教育要領」や特殊教育諸学校における「個々の生徒に応じた学習計画」や「自立活動」をベースにしている。ちょうど100年ほど前、澤柳政太郎が作った成城小学校や小原国芳が作った玉川学園といった大正自由教育に対する憧れをうまく絡めながら、進学校としてまとめようとしている。
これから出来る私立小学校はこの開智学園総合部をどのような視点で捉えていくのか問われるであろう。それほどの内容を持っている教育体系を備えている。

今の若者のクールを気取った生き方、人間関係で余分な軋轢を避け、希薄な友人関係を好む傾向も、以前、地域社会にあった異年齢で構成するコミュニティーの喪失が最大の原因ではないかと考えます。地域に異年齢の集団があった時代には、学校は教科だけを教えていればよかったのです。道徳や社会性などは地域社会で自然に学習できたからです。
集団生活のなかで上下関係を学ぶ機会がなくなった現在では、学校がそのような機会や場を築いていく必要があるのです。それが総合部ではじめる異学年による学級集団=異学年齢学級です。学校生活の母体となる学級を異学年の集団で構成することが、今、まさに重要な意味を帯びてきたのです。