正村公宏『ダウン症の子をもって』(新潮社 1983)を読む。
タイトル通りダウン症の息子を抱えた両親と施設との日々の成長の記録を綴った『連絡帳』がベースになっている。「私は機動隊。彼は全学連。」と正村氏が述べるように、多動性を抱えた息子との奮闘記である。作者は、ダウン症に伴う精神遅滞という「治る」可能性のきわめて薄い病気を抱えた親の立場から、家庭教育や福祉の原点を追求する。「この子をあとに残しては死ねない」という気持ちは、障害の子を持つすべての親がいつも胸の奥底に抱き続けているものである。「私は、死ぬときにはこの子を連れていきますよ」というように語る親も少なくない。親が健在の内は愛情で片づく話も、「親亡きあと」を考えると現在の日本の福祉の現状では恐怖感は拭えない。
障害の子にとっての「自立」とは、ある達成された状態を意味しているのではないと私は思う。それはこの子たちの「可能性」を求めるたえまない努力の方向を意味しているのだと考えている。私は、そうした私の気持を、いくらか気取ったいい方であるが、「可能性の哲学」と呼ぶことにしている。私は、「可能性の哲学」こそが、障害者福祉の基本思想でなければならないし、もっと一般的に「福祉社会」の基本思想でなければならないと思う。いや、それは、私たちの社会がより人間的であるための基本的な要件なのではないかと私は考えている。