『前夜』

この頃疲れがたまっており、読書にも集中出来ない日々が続く。もう少しすれば楽になるであろうが。。。

季刊『前夜』(影書房 2004年10月秋号)の創刊号を少しだけ読んだ。
創刊宣言には「私たちは、戦争体制へと頽廃していく日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗の新たな拠点を築く。現在のこの状況はなぜ・どのように形作られてしまったのか。日本という一国家に閉ざされた枠組みではなく、東アジア、ひいては世界という広がりの中から、〈戦後〉の歴史を批判的に再検討し、〈別の道〉を模索する」とある。政治参加に対する手法としての文学ではなく、文化や芸術を頽廃する政治に対する抵抗の手段として対置するものである。高橋哲哉氏は創刊に向けて「哲学は抵抗たりえるか?」の中で次のように述べる。高橋氏の指摘する戦争前夜体制を構築する側の正体が分かりやすくなったのは、中曽根政権以後の、総評解体、社会党終焉が続いた92年以降であろうか。少し長いが、引用してみよう。

日本社会のあらゆる領域で「地金」(天皇制と天皇制をを支えてきた新自由主義と新国家主義的勢力)の解体がなされなかった。「55年体制」と言われたころはまだ曲がりなりにも存在していた「革新」勢力が、いまや壊滅状態になっているために、その「地金」が露出してきて居直りはじめている。
この動きに対して「抵抗」を持続するためにどれだけのエネルギーヶ必要かを考えると、私もまったく楽観的にはなれないのですが、でも見方を変えれば「暗い未来」ばかりでもない。「地金」が剥き出しになってきたということは、私たちが何を相手にしなければならないのか、何を変えなければならないのかが明瞭になってきたということです。この国と社会にあって何が本当の「問題」なのかを、これまではメッキが覆い隠していた。戦後民主主義や平和主義への甘い幻想が崩れて、本当の「問題」に直面せざるをえなくなった状況を、私たちの「抵抗」と闘いにとってプラスの価値に転化させたいものです。
1945年以前も以後も、東アジアの民衆の「抵抗ーレジスタンス」がどれだけの苦難を乗り越えてこなければならなかったかを思えば、日本人が敗戦によって一夜にして民主主義や平和主義者になれたと考えるのは虫が良すぎる気もします。60年代末に森有正は、自分は「新憲法」を支持するけれども、日本人はあの戦争に本当に抵抗した少数の人びとの「苦闘」に学ばなければ、「戦争に負けたおかげで出来上がった法律や平和運動はやがて吹きとんでしまうであろう」と辛辣に述べていました。「地金」に対する「抵抗」の闘い、それを本当に変えるための闘いには歴史的な意味があり、私たちはいまもそれに直面しているのと思うのです。

ブッシュ政権の戦争の論理を支える新保守主義的シンクタンクである「米国の新世紀のためのプロジェクト」に対する「ブラッセル法廷」という裁判運動を展開しているリーヴァン・ド・コトとつい先日亡くなったジャック・デリダ氏の対話が興味深い。デリダ氏は「いま現在、私たちはまさしく、主権的「国民国家」の傲慢かつ覇権主義的な肯定と、一団のグローバルな経済勢力との結託に直面しています」と述べ、米国の新保守の元凶であるシンクタンクを表舞台に引立てようとする「ブラッセル法廷」運動に全面的な賛意を示す。これまでデリダというと「脱構築」の人というイメージしかなかったが、世界観はなかなかしっかりした人物だったようだ。

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