『日本漂流』

五木寛之『日本漂流』(文春文庫 1977)を読み返す。
確か高校時代に読んだ本なのだが、その当時どのような気持ちで読んだのだろうか。沖縄返還について高校時分の私はどのような認識にあったのだろうか、ちょっと思い出せない。先日書いたように五木氏の母親についての記述があるので少し引用したい。

私には、母親というものに対する特別な感情がない。彼女が死んだのは、ソ連軍の最初の戦闘部隊が平壌にはいってきてから間もなくのことである。その事件について、私はいつかは書くことがあるかも知れないし、また書かないままになるかも知れない。だが、私は本当は母親を思い出さなかったのではなく、昭和二十年の夏以来、母親のことを思い出すまいと無意識につとめていたのだろうと思う。
私にとって自分の原体験ともいえるぎりぎりの生きかたは、敗戦と引揚げ、そして帰国後の数年間に凝縮された時期であった。精神の形成期に通過したそれらの日々が、現在の私を作り、歪め、支配しているように思う。私にとっていま、生きるということは、そのような自分との対決であり、否定であり、そして脱出であるとも言える。

五木氏はこのような認識から当時の状況の小説化を敢えて避けているのだと述べる。この文章は1969年に文芸春秋に掲載されたものであり、現在とかなり異なっているのであろう。それについて今説明することは出来ないが、私自身のものの考え方の原点もやはり高校時代に五木氏の作品を読みふけった経験によるところが多い。これについては今度の作品も読んだ上できちんと考察してみたい。

東京新聞の記事より

短い夏休みが終わった。一昨日一泊二日で福島の方へツーリングに出掛けた。今週に入り夏の猛暑がぶり返したようで、真っ赤に腕が灼けた。おそらく明日から多忙の日々ぶ振り回され、本も読めなくなるので、この雑記の更新もまた滞りがちになるであろう。ここ最近心に去来することを思い付くままに述べてみたい。

まず、先月8月28日付けの東京新聞「五輪はオールスターで」という記事の中に、アテネ五輪強化本部長である長島茂雄氏の、全日本野球会議席上でのコメントが載っていた。
その席で長島氏は「国民が期待するところは、アテネの空で日の丸が見たいということ」と語り、五輪予選直前合宿について「ナショナリズムも浸透させていかなければいけない」と話したという。かつて「社会党が政権をとったら野球が出来ない」と語った長島氏だけに、この発言は少し危険な感じがする。サッカーワールドカップ以上に露骨な形でナショナリズムの高揚が企図されるのではないだろうか。

もう一つ野球の話題というと、大リーグのストライキの件である。日本のマスコミの大部分が経営陣側に汲みしており、イチローや野茂の活躍が見れないストライキなどもっての他だという意見がほとんどである。しかし大リーグ選手会のホームページを見るに、野球を通じた社会貢献活動といった地道な運動も行われているのに、日本での報道では大リーグ選手会は金持ちが集まった強欲な団体というレッテル張りがなされてしまっている。おそらく放映権などの問題も根底に絡んでいるのであろう。

本日の東京新聞に興味あるコラムが載った。武蔵野美術大学教授である柏木博氏の吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』(青弓社)を紹介したコラムを引用してみたい。

戦後、三〇年代論は、繰り返し行われてきた。日本の近代の近代性がどのようにはじまり、また、どのように屈折し問題を抱えていたのかを捉えるには、どうやら三〇年代に目を向けなければならないからだ。(中略)現在、再び三〇年代を問うとすれば、今日のシステム社会が、すでに三〇年代に準備されていたことを検討する必要がある。あらゆる意味において、経済的効率を優先するシステム社会は、確かに総力戦のシステムから屈折しながら連続していく。歴史の再検討は、つねに、新たな出来事の出現によって過去の意味を読み直す作業の連続である。

鶴見俊輔や吉本隆明らの「転向」論を多角的に現代的に捉えようとする作業は、現代日本において最も問われてくることであろう。私自身そのような目標をもって卒論を書き、高校教員になったのであるが、全く出来ていない。自分なりのペースとフィールドで上記の作業を行って行きたいと思ってみたりする今日このごろである。

『インターネット的』

糸井重里『インターネット的』(PHP新書 2001)を読む。
内容的には特に目新しいものはなく、著者の主催しているサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」のコンセプトについて社会学的に語ったものだ。しかしさすがにコピーライターらしい文章仕上がりになっている。私自身今月に入りこのページに毎日書き込みをしているわけだが、共感できる点も多かった。私自身がいま考えている問題とも大きく重なってる部分を引用してみたい。

いま思っていることは新鮮なうちに、いま言ってしまわないと、ほとんどが消えてしまうのです。その程度で消えてしまうものはたいしたものじゃない、という言い方もできるのですが、試しに語ってみる、とりあえず始めてみることによって、アイデアやクリエイティブは膨らんだり、転がったりして、大きな何かに化ける可能性があるのです。(中略)とにかく、いろんな場面で着想の断片でもいいから投げかけあう。(中略)インターネットができたことで、「誰でも思ったことを垂れ流せる」という意見は否定的にせよ肯定的にせよ、よく語られてきました。しかし、もっとも重要なのは、垂れ流せるとわかったおかげで、「思ったり考えたりすることの虚しさがなくなった」ということだと思います。画面の向こう側とこちら側に「人間がいて、つながっている」という実感が、クリエイティブを生み出すこと、送ること、受け取ることの楽しさを思い起こさせてくれたことが、革命的なのだと思っています。

インターネットが爆発的に日本に普及してすでに7年あまりの月日が流れているが、最近はネットバブルの崩壊や出会い系殺人など否定的な側面で捉えられがちであるが、インターネットの持つそもそもの「つながる」という感動を著者は改めて指摘している。

また著者はかつてファミコンのゲーム「mother」の製作を指揮していたが、彼の描くユートピア的な社会観がこの本にも滲み出ている。彼は「インターネット的」社会について次のように語る

「食物を持つ・生きられる満足」を得ようとする農業社会の時代が、「ものを持つ・力を持つ満足」の工業化社会の時代に移行し、「ことを持つ・知恵を持つ満足」の情報化社会の時代がきたのですから、次は、持つことから自由になって「魂を満足させることを求める」社会がくるのではないかと考えても、そんなに不思議はないと思うのですが。

糸井氏は、山岸俊男著『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)から大きなヒントを得て、「ほぼ日」が生まれたという。山崎氏の「正直は最大の戦略である」という主張を、「無理に他人をだましたりしなくてもいいし、好き好んで善人であろうとして不自然なガマンをしなくてもいい、という「自由」な生き方を肯定してくれる思想になる」と読み替え、インターネット的社会の根幹には「信頼と魂」が据えられると主張する。ノンセクトラジカル的というかアナーキスト的というか不明だが、当たり前のことを述べているようで、やはり確実に全共闘の思想を通過している。(確か彼は法政の中核派に属したことがあったのでは…、いやノンセクトに「転向」したんだっけ…)

『「超能力」から「能力」へ』

今日は家でゆっくりとくつろいで、本を少し読んだのだが、大変いかがわしい本に出会って休み気分が害された。
村上龍・山岸隆『「超能力」から「能力」へ』(講談社 1995)を読む。
この本によると、「パーフェクトハーモニー研鑽会」なる団体の筆者山岸隆氏はある日突然「特殊エネルギー」なるものが身に付いたというのだ。そしてその「エネルギー」が宿った紫色の両手を駆使することで、コーヒーの味を変えたり、筋肉の弛緩が可能になるというのだ。そしてそのエネルギーが注入されたCDを聞くとストレスから解放されたり、頭の回転が早くなったり、癌が直ったりする優れ物なのだ。まあ、ここまでの話はよくあるタイプのもので、たま出版から発行されている本ならば、軽く読み飛ばせばよい代物である。中身についてここで詳しく述べるのは控える。
しかし講談社という業界一位の出版社が村上龍の名前を冠して、何の注意書きもなしにこの手の本を発行しているということの方が問題であろう。いやはや出版社の良識を疑わざるを得ないだろう。

千葉へドライブ

今日は東京湾アクアラインの海ホタルへ出かけた。相変わらず海ホタルの観光客以外の通行は少なかった。ここしばらく道路公団民営化の話がかまびすしいが、実際にがらがらの高速道路を走るに、整備計画中の道路について原則「凍結」という方針は止むを得ないのだろう。
そして木更津からさらに養老渓谷の方へ出かけた。途中君津市の林道の奥にある福野小学校という学校へ寄ってみた。複式学級の小さい学校なんだろうなと思いつつ、山道を走っていったのだが、案の定本当に小さい小さい学校であった。しかしグランドを歩いていると2002年度3月付けで廃校になった旨の石碑があった。グランドの真ん中に大きい木が一本立っており、印象に残る学校であった。生徒数が数名の公立学校を維持するのは難しいことであるが、是非地区の中心として残してほしい学校であった。