『日本漂流』

五木寛之『日本漂流』(文春文庫 1977)を読み返す。
確か高校時代に読んだ本なのだが、その当時どのような気持ちで読んだのだろうか。沖縄返還について高校時分の私はどのような認識にあったのだろうか、ちょっと思い出せない。先日書いたように五木氏の母親についての記述があるので少し引用したい。

私には、母親というものに対する特別な感情がない。彼女が死んだのは、ソ連軍の最初の戦闘部隊が平壌にはいってきてから間もなくのことである。その事件について、私はいつかは書くことがあるかも知れないし、また書かないままになるかも知れない。だが、私は本当は母親を思い出さなかったのではなく、昭和二十年の夏以来、母親のことを思い出すまいと無意識につとめていたのだろうと思う。
私にとって自分の原体験ともいえるぎりぎりの生きかたは、敗戦と引揚げ、そして帰国後の数年間に凝縮された時期であった。精神の形成期に通過したそれらの日々が、現在の私を作り、歪め、支配しているように思う。私にとっていま、生きるということは、そのような自分との対決であり、否定であり、そして脱出であるとも言える。

五木氏はこのような認識から当時の状況の小説化を敢えて避けているのだと述べる。この文章は1969年に文芸春秋に掲載されたものであり、現在とかなり異なっているのであろう。それについて今説明することは出来ないが、私自身のものの考え方の原点もやはり高校時代に五木氏の作品を読みふけった経験によるところが多い。これについては今度の作品も読んだ上できちんと考察してみたい。

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