東京新聞の記事より

短い夏休みが終わった。一昨日一泊二日で福島の方へツーリングに出掛けた。今週に入り夏の猛暑がぶり返したようで、真っ赤に腕が灼けた。おそらく明日から多忙の日々ぶ振り回され、本も読めなくなるので、この雑記の更新もまた滞りがちになるであろう。ここ最近心に去来することを思い付くままに述べてみたい。

まず、先月8月28日付けの東京新聞「五輪はオールスターで」という記事の中に、アテネ五輪強化本部長である長島茂雄氏の、全日本野球会議席上でのコメントが載っていた。
その席で長島氏は「国民が期待するところは、アテネの空で日の丸が見たいということ」と語り、五輪予選直前合宿について「ナショナリズムも浸透させていかなければいけない」と話したという。かつて「社会党が政権をとったら野球が出来ない」と語った長島氏だけに、この発言は少し危険な感じがする。サッカーワールドカップ以上に露骨な形でナショナリズムの高揚が企図されるのではないだろうか。

もう一つ野球の話題というと、大リーグのストライキの件である。日本のマスコミの大部分が経営陣側に汲みしており、イチローや野茂の活躍が見れないストライキなどもっての他だという意見がほとんどである。しかし大リーグ選手会のホームページを見るに、野球を通じた社会貢献活動といった地道な運動も行われているのに、日本での報道では大リーグ選手会は金持ちが集まった強欲な団体というレッテル張りがなされてしまっている。おそらく放映権などの問題も根底に絡んでいるのであろう。

本日の東京新聞に興味あるコラムが載った。武蔵野美術大学教授である柏木博氏の吉見俊哉編著『一九三〇年代のメディアと身体』(青弓社)を紹介したコラムを引用してみたい。

戦後、三〇年代論は、繰り返し行われてきた。日本の近代の近代性がどのようにはじまり、また、どのように屈折し問題を抱えていたのかを捉えるには、どうやら三〇年代に目を向けなければならないからだ。(中略)現在、再び三〇年代を問うとすれば、今日のシステム社会が、すでに三〇年代に準備されていたことを検討する必要がある。あらゆる意味において、経済的効率を優先するシステム社会は、確かに総力戦のシステムから屈折しながら連続していく。歴史の再検討は、つねに、新たな出来事の出現によって過去の意味を読み直す作業の連続である。

鶴見俊輔や吉本隆明らの「転向」論を多角的に現代的に捉えようとする作業は、現代日本において最も問われてくることであろう。私自身そのような目標をもって卒論を書き、高校教員になったのであるが、全く出来ていない。自分なりのペースとフィールドで上記の作業を行って行きたいと思ってみたりする今日このごろである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください