『蹴りたい背中』『蛇にピアス』

かなり前に購入して投げ散らかしてあった文芸春秋2004年3月号の綿矢りさ『蹴りたい背中』、金原ひとみ『蛇にピアス』を読んだ。
『蹴りたい〜』の方は小中学校に比べ希薄化していく高校のクラス内の友人関係と寂しさを許容できない多感な自我とのすれ違いが面白く丁寧に描かれていた。たしかに高校ともなると、クラブの人間関係に比べクラスは少し無理をしないと、10分間休みや昼休みの妙な寂しさ、気まずさから逃れられなかったと覚えている。図書室やベランダなどクラスから少しでも離れることのできる校舎内のデッドスペースは高校にこそ必要であろうと考えながら読み進めていった。
『蛇にピアス』の方はちょうど20年前に発表された山田詠美さんの『ソウルミュージックラバーズオンリー』を彷彿させる。体にピアスの穴を開けても、入れ墨をいれても、また体を重ねても自分の存在が確認できない10代後半の不安が作品を貫いている。『ソウルミュージック〜』の頃はドラッグや不倫など「反社会的」な行為によってしか自己の居場所を確かめられない社会の窮屈さがモチーフであったが、『蛇にピアス』ではそうしたドラッグやセックスもアイデンティティの確認作業にならない。「自分って何?」といった自分探しがいよいよ難しくなってきた現在の社会を嫌が上でも思い知らされる。ちょうど今村上龍の『13歳のハローワーク』という中学生向けの職業選択のマニュアル本が話題を呼んでいるが、それなどは『蛇にピアス』とちょうど不安回避の裏返しであろう。

『マークスの山』

高村薫『マークスの山』(早川書房 1993)を読む。
内部では一匹狼的な刑事同士の衝突、地検や公安とのもめごとを抱えながらも、外部に対しては一体感・一貫性が求められる警察機構のアンバランスな体制がうまく滲み出ている。ついつい引き込まれてしまう展開に睡眠時間を削りながらも読んでしまった。

『ナコイカッツィ』

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ゴッドフリー・レジオ監督脚本『ナコイカッツィ』を渋谷のユーロスペースへ観に行った。
最終日ということもあってかなり多くの観客がいた。時差ぼけが続いており眠いのを我慢しながらの鑑賞であったが、まあまあ楽しめた。この世のあらゆる営みがデジタルと戦争によって色付けられてしまう恐怖をコラージュ風の映像で紡ぎ出す。前々作の『コヤニスカッツィ』は一部に「映像叙情詩」とも評されたが、今作も、デジタルと戦争というものがいかに人間的な表情を奪い、人間性を破壊し、しかし人間の本能的な衝動を巧みに刺激するという本質を露にしている。

『十七歳』

井上路望『十七歳』(ポプラ社 1999)を読む。
当時神奈川県立座間高校3年生であった井上さんの日常に去来する思いを自由に語ったエッセーである。いじめや母親との確執などを通して「自分らしく生きることが大切」と極々当たり前のことを述べるのだが、妙に説得力があり感心してしまった。

『猛虎伝説』

上田賢一『猛虎伝説』(集英社新書 2001)を読む。
戦前から戦後にかけての阪神タイガースの軌跡を親近感交えて追っており、引いては戦後プロ野球の発展の歴史と重なっている。新聞やテレビでは、巨人阪神戦を「伝統の一戦」とよく表現するが、これまでその「伝統」の意味がぴんと来なかった。しかし、藤村、江夏といった名球会選手の現役の頃を眺めると、関西特有のアンチ巨人、アンチ東京の精神が体現されていることに気づく。