『いじめを考える』

なだ いなだ『いじめを考える』(岩波ジュニア新書 1996)を読む。
いじめ問題というと個別的な問題として、個人的な内面性の分析が中心となってしまうが、それでは日本社会におけるいじめの構造が捉えられないと、あくまで社会的な歴史的な分析から日本におけるいじめの実態を探る。

ぼくの主張は、簡単にいえば、犯罪をゼロにできないように、〈いじめ〉をいますぐゼロにはできない、という認識を出発点にしている。だが、人類は二世紀にわたって、この〈いじめ〉を乗り越える努力をすでにしてきたことを思い出して、それを希望にしよう、というのだ。〈いじめ〉の不幸な事件があるたびに、広い意味での人権を守る歴史を見直すよい機会だと、積極的に受け取り、勉強する。そうしていけば、いつかは分からないが、そのうちに〈いじめ〉はなくなる。そういうぼくの漸進的な主張は、すべての〈いじめ〉を一刻も早く、世の中からなくしたい、と考える人にとって、なまぬるいと思われるかもしれないが、すべて人間的な措置は、人間の体温がなまぬるいように、なまぬるいものだ。ジャーナリズムが何といおうと、青少年犯罪は長い目で見れば、日本では、昭和三十年代をピークに激減といってもいいほど減少してきている。その事実を知れば、〈いじめ〉をなくすのは長い戦いになるから、一息いれることもできるだろう。〈いじめ〉は憎むべきことだが、それは人間社会の憎むべきことの一つにすぎない。それを報じるマスコミのありかたのほうが、病的な社会現象だとぼくは考えている。学校の〈いじめ〉を民族の差別を比較し、また女性差別を比較する。そしてその比較から、展望をえて、希望を引き出したいと思う。

作者の述べるように、1960年代と比べて、少年殺人事件や強盗、強姦、自殺は明らかに減ってきている。マスコミの報道が加熱しているから、増えているように感じるが、学校教育における人間教育は少しずつであるが進展している。しかし横領や窃盗などの軽犯罪における検挙人数は60年代の数倍の数に達する。物を大切にする心が社会全体で荒んできていることの証左であろう。新しい形での環境教育の充実が求めれられる。

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