山本洋幸『いま授業で困っている人に:私はこうして授業をつくってきた』(高文研 1986)を読む。
長年筑波大学付属高校で教鞭を取ってきた著者が、専門の世界史の授業の進め方を紹介しながら、授業のあり方を問う。
本来授業というものは、生徒に聞かせ、語らせ、考えさせるものである。しかし授業は教師が主導で展開するものだと誤解している教師が多く、一方的に黙って断片的な知識を注入することに一意専心しているのが現状である。しかし、著者は、産業革命の進展や奴隷制の崩壊過程などを生徒との問答を通して一つ一つ理由づけしながら、正しく理解することを目指す。
私も高校時代は世界史の教師に憧れていたが、今からでも適わぬ夢ではなかろう。。。
『社会人のための大学・大学院ガイド』
日本生涯学習総合研究所編『社会人のための大学・大学院ガイド:社会人学習ハンドブック2004-2005』(2004)を読む。
中身は広告主の大学のみの紹介記事であり、わざわざ500円近くも払ってしまいもったいなかった。少子化によって学部だけでは運営が厳しく、入学の基準を大幅に下げて、社会人の大学院生をかき集めようとする大学も少なからずあるようだ。公共政策か社会福祉、障害児教育に関する大学院を探していたのだが、探せば探すほど迷ってしまう。大学であれば学生という身分にどっぷりと漬かれるので、純粋に名前で選ぶこともできるが、大学院は学費(給付制奨学金)や通学時間、昼夜開講などいろいろ生活とのバランスを考慮せねばならず、自分の人生設計そのものが問われてくるので判断が難しい。
『天野祐吉のおかしみの社会学』
天野祐吉『天野祐吉のおかしみの社会学』(マドラ出版 1993)を読む。
テレビ東京で放映していた講演が本になったもので、人間の根源的な感情であるおかしみについて多角的な分析を加えている。なぜおかしさが発生するのか、そしてその効能や作用について具体例を用いながら分かり易く解説されている。
(映画を見ながら)そのときに思ったんですが、笑うところが違う人って、もう一つ共感できないんですね、エイリアンみたいで。やっぱり共通の笑いを持ってる人というのは安心できる。同じところをおかしがっているということが、素朴な人間的つながりを生んでいくペースになっているんですね。
もちろん同じところで笑っても、何をどうおかしがっているのか、その中身は人それぞれです。だから、人のおかしくないことを自分がおかしいと思ったときに、「あれ、おれは人と違うんだなア」という、自分自身の発見にもつがるわけで、そこにもおかしみのすぐれた効用があるわけですが、それにしても、人がおかしいときに自分はぜんぜんおかしくないということがつづくと、これは生きていけなくなってしまいますよね。
『吉本隆明の僕なら言うぞ!』
吉本隆明『吉本隆明の僕なら言うぞ!:こんなニッポンとの正しいつき合い方』(青春出版社 2002)を読む。
銀行中心主義や農業、公共投資を重視するケインズ的政策に固執する当時の自民党小渕内閣を批判しながら、返す刀で、高度消費資本主義の現状分析を誤っている社民党や共産党などの既成左翼を斬る。そして、現在は消費を中心に経済が回っているから、消費者が安心して金を使えるような社会制度を構築すべきだという民主党的論調を繰り返す。
しかし、果たしてどのような読者がこの吉本の著書を手に取っているのだろうか、大いに疑問である。学生時代は戦後民主主義を礼賛し、現在は民主党の強調する都市の生活者を中心とした社会民主主義を信奉する団塊の世代辺りが、未だに吉本隆明を持ち上げているのだろうか。
就職して職業人になっちゃうと、雇われたところの職業的視野になってしまいがちで、これはある意味ではとても情けないことなんですね。だから普遍的視野が得られるような就職口を探すわけですし、またそうなりたがるわけです。
政治家とか学者とか芸術家、文学者というのはみんな高等遊民なんですよ。これは何がいいかというと、大きな視野をいつでも持てるということ。それが利点なんですね。だから高等遊民に類する職業になりたい。職業人になるなら、そういうのになりたいというのは、誰もの願望であったり希望であったりするものだと思います。俺は違うよ、という人は本来いないので、やむをえなければそうなんですけれど、どこかで大きな視野を持ちうる職業、つまり開放された気分になりますし、開放された視野を持ちうる、そういう場所に行きたい。職業ならばやっぱりそういうところに行きたい、というのは万人の持っている思いです。だから、そういうところにできるだけ行こうと考えて当然なわけです。

