読売新聞運動部『誤解だらけの大リーグ神話』(中公新書ラクレ 2002)を読む。
日本では、大リーグというと「夢と希望が溢れ、地元に密着し、ファンを大切にするベースボールの神髄」と、日本球界への批判を交えながら半ば神話的に報道される。しかし、実態はニューヨークヤンキースなどの一部の金満集団とエクスポズなどのテレビ報道もない地方の球団の格差がますます広がっていく優勝劣敗の世界であることが見えてくる。
『「皇室・王室」がきちんと分かる本』
広岡裕児『「皇室・王室」がきちんと分かる本』(オーエス出版 2002)を読む。
手に取りやすいようにとの配慮のためか、一文一文で丁寧に改行してあるのだが、かえって読むリズムが崩れてしまい内容がいまいち頭に入らなかった。
内容的にはベルギーや英国のロイヤルファミリーと比較しながら、主観をあまり交えずに淡々と皇室の仕組みや歴史を述べる。著者の立場は下記の引用に表れている。
現在の祝日の多くが天皇絡みだというのは良く知られていることである。「みどりの日」は「昭和天皇の誕生日」、「文化の日」は「明治天皇の誕生日」、新嘗祭が「勤労感謝の日」、春分・秋分の日も天皇家の祖霊の降霊祭に端を発する。そして、2月11日の「建国記念日」は戦前の「紀元節」で神武天皇が即位したとされる日が元になっている。この紀元節は1958年に復活したのだが、これに三笠宮崇仁親王が歴史学者として国家が法的に決定するのに反対を表明して話題になったという話が興味深かった。三笠宮氏は「文藝春秋」1958年2月号で、日本の先史時代を概観した後、神武天皇即位が後代の作為でありそれを太陽暦にあてはめた2月11日も架空の日であるとして、「日本紀元二千数百年という思想は決して古来から存在したものでないこと、それはむしろ西暦紀元の輸入に伴って明確化した考え方であった」と断定している。
皇室典範もふつうの法律の一つです。法律は国会で決まります。内閣総理大臣は国会が指名します。ですから、天皇をどうするか、皇室をどうす るかは国民一人一人の問題です。たとえ憲法改正論議が出てこなくても、いつでも身近な問題なのです。すべては国民のてに委ねられています。思えば、天皇や皇室の存続とあり方はときの権力者の手中にありました。いま国民主権になって国民全体が権力者になりました。ですから当然のことなのかもしれません。
『哲学ってどんなこと?』
ふとした事で、生きるという意味を突きつけられた。生きる楽しさが見つからないから死んだほうが良いという意見に対して、どうすれば明確な批判ができるだろうか。
トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』(昭和堂 1993)を読んでみた。
大学の哲学の授業のテキストにも使われる哲学の入門書である。人間の心は結局、他者性に欠けたその人の主観に属するものであり、道徳や正義はその人の心に内在するものだということを丁寧に証明する。そして、著者であるネーゲル氏は、生きる意味を自分の外部の神や社会に求めても結局は堂々巡りに終わってしまうことを明らかにした上で、次のように生きる意味をまとめる。
たとえ、人生が全体としては無意味であったとしても、だからと言って何も心配することはないかもしれません。もしかすると、私たちは、人生が無意味だと認めながらも、以前と同じように生き続けることができるかもしれません。そのために必要なコツは、あなたの目の前にあるものだけに目を向け、正当化はあなたの人生の内側や、あなたに関わりがある人たちの人生の内側で終わるのだ、と認めてしまうことです。もしあなたが「でも、一体何のために生きているのだろう」と自問するならば、あなたは、こう答えるでしょう。「目的なんか何もないさ。もし私がいなかったとしても、あるいは、もし私が何も気にかけなかったとしても、大したことではないだろう。それでも、私は存在しているし、気にもかけている。それだけのことさ」。
『頭には、この刺激がズバリ効く!』
ウィン・ウェンガー『頭には、この刺激がズバリ効く!』(三笠書房 )を読む。
3週間で脳の働きが活性化する秘訣を教えますといった触れ込みで、眉唾物だろうと思いながら読んだ。何てことはない、ピアジェの発達心理学を応用した、障害児教育で用いられている感覚等合法やムーブメント教育などの焼き直しである。四つん這いで這ったり、光に反応したりと、大脳の下部機関である延髄や橋脳、中脳レベルの働きに刺激を与えることで、大脳の機能の発達を目指すというものだ。しかし、科学的な裏付けに乏しく、話半分しか読まなかった。

