『ロボット入門』

舘日章(たちすすむ)『ロボット入門:つくる哲学・つかう知恵』(ちくま新書 2002)を半分だけ読む。
20世紀のロボット開発研究を紹介し、21世紀のあるべきロボット像を提唱しようという気合いの入った新書となっている。
しかし、一口にロボットといってもその技術は一つではなく、思考判断能力や外界内界認識、二足歩行技術など多岐にわたるもので、それぞれに技術と哲学が入ってくる機械工学の総合技術である。入門書として新書一冊にまとめようとする努力は分かるが、読者に分かりやすく説明しようとする工夫に欠ける。

『電車男』

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最近、毎週木曜日フジテレビで放映している『電車男』を妻と二人で笑いながら見ている。主人公の懸命な演技とコミカルな展開のちぐはぐさが面白い。途中主人公がピンチになると昔のゲーム機のようなピコピコ音が入るのだが、これまた場面を盛り上げ面白い。

『格闘技を知的に観る方法』

中山健児『格闘技を知的に観る方法』(河出書房新書 1998)を読む。
K−1やPRIDEのリングドクターを務める著者が、試合に水を差すドクターという苦しい立場から格闘技の醍醐味を語っている。かなり古い本なので、正道会館の石井館長やらオランダのキックボクサーのピーターアーツがもてはやされており、多少のちぐはぐ感も味わいなが楽しく読んだ。特に絞め技や関節技の妙やハイキックによるKO、ミドルへの打撃による戦意喪失など、未経験者には分かりにくい格闘技の技について丁寧に解説されている。
得てしてこれらの格闘技本は団体のイデオロギーというかセクト主義に縛られてしまいがちだが、柔道経験者の著者ゆえのフラットな視点で書かれているのがよい。

8月15日の靖国事件に抗議する声明

以下、AMLより転載

yasukuniQ8月15日の靖国事件に抗議する声明

 2005年8月15日、軍国主義と民族排外主義を掲げる右翼団体が靖国神社にあつまり、6千人の大集会を行いました。核武装を主張する安倍晋三、石原慎太郎をはじめとして、複数の閣僚と多くの国会議員が、右翼団体とともに靖国神社に参拝し、戦没兵士への「哀悼」の意を表しました。それは、かつての東アジアへの侵略戦争から現在のイラク戦争に至るまで、他国の民衆への虐殺行為を不問にし、自らの加害と被害を無関心の淵に沈めることで、戦争を容認するものです。

 正午の時報を合図に、軍国主義者たちが黙祷を捧げ、そこから数百メートル離れた路上で、戦争反対を訴える私たちの友人が警察官に逮捕されました。かれらは、戦没兵士への「追悼」がさらなる戦争を準備するものであることをうったえ、戦争と軍国主義に反対するプラカードを掲げていました。プラカードを持った約50名の市民が靖国神社に向かって足をすすめようとするなかで、おおぜいの重装備の警察官が彼らを取り囲み、たまたま通りがかっただけの人々をもまきこんで、暴力的に圧迫しました。そうして、包囲した市民のなかから4名を引きずり出し、逮捕したのです。警察は逮捕理由を「公務執行妨害」であると言っています。しかしそこにいかなる正当な公務があったというのでしょうか。

 日本の警察が、些細な理由で市民を逮捕することや、逮捕した市民を「過激派」と呼びなすことは、珍しくありません。そういうことに、私たちは慣れてしまっています。市民が自由に活動し意思表示をする権利がおかされ、警察の横暴と強権はますますエスカレートしています。市民が集まることや表現することが、愚かしい行為であるかのようにされようとしています。私たちは、戦前戦中の怖ろしい時代に逆戻りしているのではないでしょうか。

 私たちは戦争に反対します。そして、戦争反対の意思表示すら許さないような軍国主義と警察国家に反対します。裁かれるべきは、プラカードを掲げる市民ではなく、市民を圧迫する者です。戦争反対を訴える市民がいったいどれだけ「過激」なのか、警察は「過激」でないのか、本当の「過激派」は誰なのかを、私たちは問うていきたいと思います。
ご支援とご注目をお願いいたします。

8月15日事件救援会(ANTIFA 815)
連絡先:東京都港区新橋2-8-16 石田ビル 救援連絡センター気付  090-2901-9202(ヤブ)
カンパ振込先:みずほ銀行 中野北口支店(243) 普 1025488 ヤマグチモトアキ
Eメール:no2yasukuni(nospam)sanpal.co.jp  ※nospamは@に置き換えてください

『思い出つくれる学校のすすめ』

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森毅『思い出つくれる学校のすすめ』(明治図書 1990)を読む。
「算数教育」という教員向けの雑誌に連載された著者の教育を巡るエッセーをまとめたものである。「授業のプロ」「道徳者」「上に立つ者」という固定化された「教師」観念を崩すことから、教育に柔軟性が生まれて自由な教育環境が実現できる素地が生まれるのではないかと、森氏はのらりくらりとした語り口で述べる。氏はゼロサムに物事を固定化する傾向にある教員や校長、さらには教育行政全般の在り方に批判的な見解を示し、あらゆる物事には100%というものは存在せず、適度な異分子が混じっている方が自然であり、そうした多様性を守っていくことこそが教育の原点であると述べる。一方で、森氏はいたずらに管理や校則のない自由教育を目指せと言うのではない。一定程度の規則やルールを作った上で、ぎりぎりルールに踏みとどまったり、逆にルールを思い切って越えていく、そうしたライン際における判断力や行動力が生き馬の目を抜く社会で役立つと述べる。つまり、土俵際の粘り強さこそが真の「生きる力」だというのだ。
確かに、私自身自分や相手をうまく騙したり騙されたり、また賛成しながら反対するといった微妙な対他関係を苦手としているので、いろいろ参考になるところが多かった。