『国境の南、太陽の西』

本日も昼過ぎに起きて、一日悶々として過ごしていた。新書も読みたくないし、小説も読む気がしない。何かエッセーでも読みたいと思って、本棚を物色していたら、村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社 1992)が目に入り読んでみた。
冒頭の出だしが「僕が生まれたのは一九五一年の一月四日だ……」と、主人公の設定が著者のプロフィールとほとんど変わらないものだったため、最初はエッセーだと疑わず三分の一ほど読み進めていってしまった。30代後半という人生の中年に差しかかって、「国境の南」というこれまでの、そしてこれからの人生とは別の未だ見ぬ世界への憧れと、また、「太陽の西」という惰性的な日常生活から抜け出す衝動に駆られてしまう男の心理が底を抉るように描かれている。
下記の主人公の妻に対する言葉を読みながら、私も自分の来し方行く末を考えた。明け方、妻の寝ている隣の部屋を見やりながら、私も太陽の沈む西に向かってある日歩み始めるのだろうかと、漠とした将来に対しての不安が脳裏をよぎった。

僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕は違う自分になることによって、それまでの自分の抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくはこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。

『成功する読書日記』

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共立女子大文芸学部教授鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋 2002)を読む。
大学でフランス文学について教鞭を取る著者が、雑誌に掲載された自らの読書日記をまとめた本である。フランス文学から思想、歴史、戦争と、とにかくそのカバーするジャンルは広い。一日数冊というべらぼうな「量」で活字の山を制覇している。学生時代に読んだ中野重治の獄中日記を思い出した。

まことに博覧強記な著者であるが、読者に勧める読書のあり方はいたってシンプルだ。とにかく、読書の「量」をこなすこと、そして簡単でいいからその本と遭遇した時の情報を残すことの2点である。まずは自分が興味を持っているジャンルの本を徹底して読み続けること。そして、いつ、どの書店で、どのような形でその本と出会ったのか、本そのものとの出会い情報を残しておくことである。本との出会いを自分の日常生活体験の中に位置づけることで、それまでの読書の軌跡が意識に上り、次の読書意欲が換気されるという。また、本を読み終えたら、その本のエッセンスとなるような箇所の「引用」と、物語や思想を自分の言葉で言い換えて「要約」を習慣づけて行うことで、文章理解能力の基礎が固められると述べる。
確かに他者性のない文章を書き連ねている私にとって耳が痛い話しである。これを契機に少し要約を練習していけたらと思う。

読書日記や映画日記を続けていると、いつしか、コレクションが「開かれる」という現象が起こってきます。それまでは、一つにジャンルに集中していたものが、あるときそこに夾雑物がまじりこんできて、その夾雑物が次のジャンルを導くのです。冒険小説ばかり読んでいたとき、たまたまSF小説を一つ読んで、日記に記載する。そして、それがおもしろかったりすると、今度はSFというジャンルにコレクションが「開かれて」くるのです。

『教科書にも載っていない−日本地図の楽しい読み方』

台風が近づいている今日、久しぶりの休日を家でまんじりとしている。しかもテレビのアンテナが調子悪いようで、白黒でノイズが混じる画面を見る気にもなれず、たまった新聞を読んで過ごしている。ここ数日、那須や静岡の山奥へ出掛けばたばたとしていたので、少し体を休めなくては。

ロム・インターナショナル編『教科書にも載っていない−日本地図の楽しい読み方』(河出書房新書 1997)を読む。
まさに家の中で時間を潰すのにぴったりの雑学の文庫本である。富士五湖の歴史やら九十九里浜、国道の謎など「明日役に立たない」知識満載の内容であった。

『非国語』

野田秀樹『非国語』(マドラ出版 1992)を読む。
書き言葉を一義的な「素コトバ」、話し言葉を詐欺的な「汚コトバ」と改めて定義し、言葉を詐欺的に用い観客を魅了することを生業とする演出家・役者という立場から、書き言葉よりも文化的に低位なものだと考えがちな話し言葉の持つ可能性を述べる。

『「よのなか」入門』

藤原和博『「よのなか」入門』(三笠書房 2003)を読む。
リクルートのトップセールスマンとしてリクルートの歴史に輝かしい1ページを残した著者が、年棒契約社員「フェロー」として独立し、足立区の中学校で「よのなか」という「情報編集力」を磨く授業を創設し、東京都杉並区立和田中学校の校長に転身するまでの過去半生を振り返りながら、「世の中」を生き抜いていく術と情熱を熱く語る。
「夢」というのは得てして大きいもので手に入れにくいものだ。「パイロット」や「プロ野球選手」といった夢はただ持ち続けているだけでは決して実現しない。とにかく目の前の現実に向かって行動しながら修正していくことが大切なのである。「自分探し」という大義名分に翻弄されて自分を磨くことから逃れては将来を変えていくことはできない。「夢」は一人で作っていくものではなく、人間関係を通じて、向こうからやってくるものである。だからこそ巧みなプレゼンテーション能力と円滑なコミュニケーション能力を磨くことが夢実現の第一歩だと語る。