『「頭がいい」とはどういうことか』

米山公啓『「頭がいい」とはどういうことか』(青春出版社 2003)を読む。
ホームページを見ると、著者米山氏は130冊以上も著作があり、講演会も精力的にこなす多忙な人物のようだ。メルマガの発行や読者との交流など自分の宣伝にも余念が無い。
大脳生理学や認知科学などの専門的な話を分かりやすい具体例を交えて紹介している。タイトルで出された「頭がいい」という問題提起に必ずしも答えきれていないのが残念なところである。

『若者に伝える戦争の真実:人間と地球の未来のために』

戦後60年ということで、戦争に関する本を1冊読んでみた。
名古屋国際高等学校教員グループ著『若者に伝える戦争の真実:人間と地球の未来のために』(かもがわ出版 1995)という本である。731部隊の元隊員の息子である神谷則明氏を中心としてまとめられ本である。しかし、「若者に〜」とある以上、高校生が手に取る本でもなく、読者対象がいまいちはっきりしないが、731部隊や南京大虐殺、従軍慰安婦、原爆、アウシュビッツ、天皇の戦争責任、教科書裁判など、10年経った今現在でもほとんど進展のない戦争を巡る事柄について分かりやすく問題提起している。アウシュビッツの項では、有名なマルチン・ニーメラーの言葉を引用しながら、常に問題の主体を読者に投げ掛けている姿勢は評価できる。学校のホームページを読む限りでは授業評価も公表されており、とても著書のような授業を繰り広げられる余裕はないと思うのだが、是非頑張ってほしい。

ナチスが共産主義者を弾圧した時 私は不安に駆られたが
自分は共産主義者でなかったので 何の行動も起こさなかった
その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが
自分は社会主義者ではないので 何の抗議もしなかった
それからナチスは学生 新聞 ユダヤ人と 順次弾圧の輪を広げていき
そのたびに私の不安は増大した が それでも私は行動に出なかった
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった
だから行動に立ち上がった が その時はすべてが あまりにも遅かった

『体育原論』

永松英吉・水谷光壮共著『体育原論』(原書房 1987)を読む。
初版は1968年となっており、おそらくは大学の教科書として用いられていたのだろう。文章を読むだけで、この本を基に展開されていたであろう退屈な授業が目に浮かんでしまう。体育というものを何かしら意義付けようとすると結局はスポーツマンシップとアマチュアリズムの2点に行き着いてしまう。

スポーツマンシップとは、精神と身体は一体のものであるというギリシア的な人間観に基づき、肉体を鍛えることで健全な精神が鍛えられるというロジックである。それは、後世肉体は汚れたものだとするキリスト教的な人間観が蔓延り、肉体を鍛えることは悪だとされたローマ時代に、「健全なる精神の健全なる身体に宿ることこそ望ましけれ」と、ギリシアの全人的な心身の調和を理想とした詩人ユヴェナリスの風刺的な言葉にも表れている。
また、アマチュアリズムは、簡単にまとめると、競技そのものを目的化し、相手や審判、ルールを尊重する・させることで、善悪の判断や規範意識を身に付け、身に付けさせ、人間性の向上と、豊かな生活と文化の向上を期すというものだ。

勝敗絶対主義と商業主義にどっぷりと漬かりながらも、こうした仮面を被る姿勢を取り続けるところに、スポーツ・格闘技ではなく、体育・武道の意味があるのだろう。
この本ではあまり展開されていないが、国家権力がどのように体育・スポーツを位置づけてきたかという視点で体育の歴史を俯瞰するというのは面白い研究になるであろう。体育は人間の身体そのものと密接に関わるものであるため、時の政府による体育の位置づけには、国家権力のむき出しな姿が顕れてくるはずである。

闘道館

izumitoudou

東京新聞記事
水道橋駅南には格闘技関連の店がいっぱい。中でも闘道館=電03 (3512) 2081=は書籍と雑誌に強い店だ。「最近、力道山の写真が豊富に使われた昭和三十年代のプロレスかるたを入手した」と泉高志館長が興奮気味に話してくれた。
(左似顔絵)

本日の東京新聞の後楽園周辺を紹介した記事に、私の大学時代の友人が経営する格闘技グッズを扱う「闘道館」が紹介されていた。「ニッチ」をうまく嗅ぎ分ける商才があったのか、格闘技ブームにうまくのり、経営も順調なようだ。格闘技に興味がある人は、是非立ち寄ってみてください!

header_logoheader
2012_main

『アイドル政治家症候群』

矢幡洋『アイドル政治家症候群:慎太郎、真紀子、康夫、純一郎に惹かれる心理』(中公新書ラクレ 2003)を読む。
テオドア・ミロンの人格障害理論に依拠し、日本で人気を集める政治家の心理と、その人気の仕組みの分析を試みる。日本人は、共同体内部においては気配り上手で、万事にきちんとし、忍耐力のある苦労人という調整的で同調的なパーソナリティを持った人間を理想としてきた。しかし、抑うつ的な雰囲気が社会全体を覆うにつれて、共同体の外の集団に対しては独断的で破壊的な強烈な自分意識を持った人間を希求するようになる。そうした時代の雰囲気に小泉総理や、田中真紀子議員、石原、田中知事がうまく乗っかったと著者は評する。著者の分析は政治評論の立場ではなく、あくまで人格分析に基づくので、発想が新鮮である。例えば石原都知事については、権力の中枢を浮遊しながら、あくまで彼の行動判断の基準に「反社会性」が貫かれていると述べる。一方で、鈴木宗男議員は熱血漢を売りにしながらも、あくまで自説の論理の整合性で持って相手をねじ伏せようとする攻撃性を有すると著者は結論付ける。本人に対する取材はなく、本人のマスコミでの発言や著書からの分析であり、牽強付会な箇所も多いが暇つぶしには良いだろう。