本日の東京新聞朝刊より
この記事によると、法華経160では「よくととのえし おのれこそ まことえがたき よるべをぞ獲ん」と続く。最初で最後の寄る辺が「己れ」であり、「自分」をしっかりと整えることでこそ道が得られると説く。他者をあれこれ言う前に、まずは自分を鍛え整えること。これに尽きる。
月別アーカイブ: 2020年2月
『エネルギー論争の盲点』
石井彰『エネルギー論争の盲点:天然ガスと分散化が日本を救う』(NHK出版新書 2011)を読む。
原子力発電の危険性やコスト高について明確に批判する一方、太陽光や風力発電以外を認めようとしない環境派の意見に対しては、現状を見ていない机上の空論だと断じる。その上で、今後の日本のエネルギー政策について、石炭火力発電や原子力発電のウェイトを下げ、天然ガスを中心に再生可能エネルギーを組み合わせた、コストと環境負荷を両天秤にかけた形を提案する
確かに天然ガスも地球温暖化の主因である化石燃料の一つである。しかし、天然ガス発電は、ガスタービンからの排気でもう一度発電を繰り返すコンバインドサイクルの技術が標準化されており、従来型の石炭発電に比べ1.5倍も発電効率が良い。つまり、CO2の排出量は3文の2に削減される。また、天然ガスは原油に比べ、世界各地に点在しており、今後400年ほどの埋蔵量が確認されている。
著者は、鄧小平の「白いネコでも黒いネコでもネズミを取ってくるのがいいネコだ」という言葉を引用し、原子力と再生可能エネルギーの論争を越えて、現状より環境によく、コストや安全性も考慮した妥協案を主張する。
最後に著者は次のような例え話で締めくくる。
天然ガスを野球にたとえれば、ホームランは少ないが、三振や凡退も少ない出塁率の高い二番、三番バッターのようなものである。3・11後の現在の日本のエネルギー状況で求められているのは、試合に着実に勝つことであって、子どものファンを喜ばすために、大ぶり三振や走者封殺のリスクを冒してホームランを狙うことではない。現状は、かつて四番を打っていた高級取りの石油に疲れが見え、力任せの大ぶりスイングで、監督の覚えめでたく四番と目されていた原子力が、力みすぎの大ファウルで観客に怪我をさせ、自らも大怪我してしまったようなものである。そうである以上、試合に勝つためには、これまで二番、三番を打っていた天然ガスが四番に変わり、長打が打てずに調子の波が大きいので八番、九番だった風力発電・太陽光発電などを、一番、二番に繰り上げていくしかない。三番、五番は、疲れと怪我で衰えたとはいえ、未だ侮れない長距離ヒッターの石油と原子力が打つしかないだろう。
『猫島』
ねこみゅ!編『猫島:14人の住民と200匹の猫島-愛媛・青島』(フールズメイト 2014)を見る。
愛媛県大洲市の沖合14kmに浮かぶ周囲わずか4kmの小さな島に暮らす猫の写真集である。かわいい猫ちゃんたちがこれでもかというくらいに登場する。若い女性であれば、「きゃー」と歓声を上げていたことだろう。
あとがきの中で、編集者は猫島の抱える問題点についても指摘している。猫島を尋ねる人は悪い人ではないが、猫カフェに行くような気楽な気持で訪れる。しかし、青島は住民14人のみで観光地ではなく生活の島である。宿泊施設も売店もない。大量の人が訪れるだけで、住民の生活が妨げられてしまう。決して観光地ではないが、観光公害という言葉が想起される。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋 2013)を読む。
3日に分けて読んだのだが、さっき読み終えたところの、つくるがフィンランドに住むエリに出会って日本に帰ってきた後日談は全く頭に話が入ってこなかった。自覚はしていないが、酔いも入っているせいもあり、相当に疲れが出ているのか?
前半のミステリー的展開は面白かった。しかし、30代半ばの焦燥感や未練といった人生の転換期に特有な心境は理解できなかった。
『舟を編む』
三浦しをん『舟を編む』(光文社 2011)を読む。
雑誌「CLASSY」の2009年11月号から2011年7月号に連載されたものである。
読み出したら止まらなくなった。足掛け15年にわたる辞書作りの現場が舞台となっている。登場人物が丁寧に描き込まれいるので、辞書作りのノウハウに加え、仕事にかける情熱も伝わってきた。
作者の執筆に対する真摯な姿勢が、作品を通して読者にひしひしと伝わってくる。最近、紙の辞書を引くことも少なくなったが、大判の辞書を手もとに置いておくのもいいなと思う。