永谷脩『野村克也「勝利の方程式」:「頭」はこう使うから生きてくる!』(三笠書房 1997)を読む。
昨日、野村克也元監督が亡くなったとの訃報をニュースで見て、本棚に転がっていた本書を手に取ってみた。
1989年の秋にヤクルト監督に就任してから7年あまりのゲーム采配やチーム運営、人の育て方について語られている。80年代のヤクルトの低迷期から、古田や池山、広沢らが華々しく活躍を始めた90年代前半の話がメインである。私自身がラジオやスポーツ新聞でヤクルトの活躍を応援していた一人だったので、大変興味深く読んだ。
「選手一人ひとりに応じた指導」と簡単には言うが、それには指導する側が徹底した信念と理念がないと、選手の我が儘や気分に振り回されるだけである。もしくは、自分の経験則のみを貫こうとする意地っ張りが出てしまう。
著者の永谷氏も鬼籍に入られているが、野村氏の手腕以上に、著者の野村氏への傾倒度合いがひしひしと伝わってくる内容だった。
本日の東京新聞朝刊より
プロ野球南海(現ソフトバンク)で戦後初の三冠王になるなど活躍し、監督としても南海、ヤクルト、阪神、楽天を率いた野村克也(のむらかつや)さんが十一日、虚血性心不全のため死去した。八十四歳。京都府出身。
京都・峰山高から一九五四年、テスト生として南海に入団。強打の捕手として五七年に30本塁打で本塁打王になると、六二年には当時のパ・リーグ記録を塗り替える44本塁打を放った。六五年には打率3割2分、42本塁打、110打点で戦後初の三冠王に輝いた。七〇年に兼任監督に就任。七五年には史上二人目の通算600本塁打を記録した。
捕手として「ささやき戦術」や投手のクイックモーションの導入など野球界に新境地を開いたことでも知られる。ロッテ、西武を渡り歩き、八〇年に四十五歳で現役を引退した。
九〇年にはヤクルトの監督に就任。「ID野球」と称された緻密な野球スタイルを確立し、九八年までの九年間でチームをリーグ優勝に四度、日本一に三度導いた。九九年から三年間は阪神、二〇〇六年から四年間は楽天の監督を務めた。他球団でくすぶっていた選手をよみがえらせる手腕は「野村再生工場」と呼ばれた。
現役時代の通算2901安打、657本塁打はともに歴代2位で、打率は2割7分7厘。通算出場3017試合は現在もパ・リーグ史上最多記録となっている。リーグ本塁打王九度、首位打者一度。監督としての通算成績は1565勝1563敗76分け。