堀川波『女おとな旅ノート』(幻冬舎 2011)を読む。
イラストレーターを生業とする著者が、国内外の旅で見つけたおしゃれな着こなしや雑貨について語る。
旅コスメやカフェなど私自身が全く興味がないものばかりなので、後半はさらっと読み飛ばした。
著者も殊更女性感覚を強調するので、感性に関する男女間の深い溝を実感した。
月別アーカイブ: 2018年8月
御茶ノ水・湯島散策
本日も駿台セミナーの受講で、御茶ノ水の駿台校舎を訪れた。浪人生時代を過ごした町であるが、明治大学記念館も名物の立て看もなくなり、寂しい風景に感じる。
お茶の水橋からの風景。付近の案内看板によると、この界隈を「駿河台」という所以は、「家康が駿河で没した後、家康付きを解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構え」「駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は『駿河台』と呼ばれるように」なったとのこと。
お茶の水橋を越えて、昌平坂学問所跡に立ち寄った。孔子像が迫力満点であった。
湯島聖堂の裏手にある神田明神に立ち寄る。何かアニメのコラボイベントがあるようで、家族連れやカップルだけでなく、コミケに居そうな若者の集団が目立った。敷地内に「国学発祥の地」という記念碑があった。荷田春満が江戸で最初に江戸に出て初めて国学を説いたのが神田神社神主の芝崎邸内であったことに由来するとのこと。やや牽強付会な感は否めない。
少し遠回りをしながら、湯島天満宮に辿り着く。5世紀半ばの創建で、学問の神様菅原道真を祀る伝統ある神社である。湯島聖堂の周囲は大学ばかりだったが、湯島天満宮の周囲にはカップルズホテルが立ち並んでいた。湯島天満宮と湯島聖堂、どちらも学問の神様を祀っているので混同しがちだが、実際に歩いて参拝すると、周囲の風景から違いが見えてくる。
一日だけの大学生活
『広重』
楢崎宗重『広重:人と歴史・日本 25』(清水書院 1971)を読む。
江戸末期の浮世絵師として名声を恣(ほしいまま)にした歌川一門の安藤広重の生涯と作品について細かく解説している。広重の代表作というと『東海道五十三次』だが、遠近法が取り入れられ、何気ない宿場の風景なのだが、日本に四季の彩りを感じるものとなっている。”芸術”志向が強かった葛飾北斎とは異なり、広重は現在の観光案内や宣伝ポスターのイラストや挿絵なども幅広く手がけており、写真が普及する以前の”デザイナー”と捉えると分かりやすい。
鈴木春信は1765年に錦絵を創成し、版画による風俗表現に一新世紀元を画し、その後美人風俗画は清長・春章らを経て、歌麿に至って芸術的表現の絶頂をきわめた。役者絵も春章が個性描写の新様式を創始し、それは写楽に至って絶頂をきわめた。このように(中略)黄金時代を現出したが、結局、歌麿と写楽とを最後の価値体験者として、その後は芸術的価値創造性を失ってしまった。このときにあたって浮世絵に新しい視野をあたえ、芸術的価値創造の道をひらいたのは、風景画と花鳥画とであった。
花鳥虫魚の絵に一段の光彩を放ったのは北斎である。北斎はあらゆる花・鳥・諸動物をかいているが、その作風は、一面には北斎の主観的な意思的なものを反映する個物としての花鳥画であり、他面にはきわめて客観的な実在そのものの性格描写という二重性を示している。(中略)広重は北斎とは全く相反する態度を示した。客観的に対象を把握し、これを豊かな詩情をこめて表現した。(中略)自然の一角、個物的断片をかいて、これをもって自然と人生とを象徴しようとする広重の芸術は、実に客観的抽象的な題材としての花鳥を、高次な価値において表現するものである。庶民の精神生活の向上を、胸のすくような鮮やかさで表現するものであった。
回りくどい言い回しで何を言いたいのか分からないが、歌麿と写楽で美人画や役者絵、相撲絵は完成し、北斎と威広重がアプローチこそ異なるが、風景画を完成させたということは理解できる。
浮世絵
浮世、すなわち当世の風俗、世態、人物を題材とした絵のこと。
室町・桃山の狩野・土佐派の風俗画の影響を受けて起こる。初めは遊里、のち一般風俗、風景、役者など広く扱い、肉筆画と木版画がある。特に版画は菱川師宣に始まり、一色刷りから錦絵に発展。鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、それに、江戸末期の最大派閥である歌川一門出身の安藤広重などが代表的作家。版画は西洋の近代絵画、特にフランスの印象派に大きな影響を与える。
フランスの印象派は、光に反射する色彩の視覚的効果をそのままに捉えようとする技法で、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどが代表。なお、明治になってフランスに遊学していた黒田清輝によって日本に紹介(逆輸入)された。
『もっと知りたい日本の現代史』
鈴木亮『もっと知りたい日本の現代史:第1次世界大戦から湾岸危機まで』(ほるぷ出版 1991)を読む。
著者は高校で教えていた経歴もあるので、不勉強な高校生にも分かりやすく、日本とアジアの関係ついて説明する。戦前の共産党運動に肩入れしている部分が数多くあり、「あれ、大月書店の本だっけ?」と奥付を見返したほどである。
最後に筆者は次のように語る。
歴史は暗記科目だ。試験のまえにちょっとおぼえればいいという姿勢が、歴史をつまらなくし、無意味にしてしまう。軽々しい歴史の語句の暗記は、かえってその人の世界観や人生観にマイナスにさえはたらくだろう。
歴史の事実・知識のなかには、その時代を生きた人々の、怒りや喜びや悲しみや苦しみ、愛や残酷さや、強さや弱さが込められている。果たそうとして果たせなかった願いがこもっている。命をかけた言動がある。
そのできごとのもつ意味を考える。なぜそうなったのか、なぜそうならなかったのか、そうしたのは誰か、そうさせなかったのは誰なのか。これはだれとだれのたたかいだったのか、この事実とこの事実がどこでどうむすびついているのか、むすびついていないのかを考えてみる。第2次世界大戦後の日本は果たして、ヒトを食うしごと(1945年の覚え方)をやっていないだろうか。
歴史の学習というのは、やさしい勉強ではない。歴史の本を読んだら、すぐに歴史がわかったというわけにはいかない。ある高校生は「歴史は現代の理由だ」といった。