石原千秋『Jポップの作詞術』(NHK出版生活人新書 2005)を卒読する。
2001年から05年にかけて大学受験雑誌に連載されたもので、漱石研究の第一人者の著者が当時人気だったJポップの歌詞を「テクスト論」として分析しようという意欲作である。テクスト論とは、生身の「作者」と「テクスト」とを切り離して論じるもので、「作者の意図」など全く考慮しないというものである。つんくや福山雅治、平井堅など誰しもが知っている作詞者が取り上げられており、歌詞の分析からそうした歌詞が生まれてくる背景についても触れられている。
消費社会論について高校生向けの”超”分かりやすい文章があったので、紹介したい。
(B’zの『GOLD』の歌詞から取り出した)キーワードのところで、「期待」や「不安」の主語はすぐに決めることができるのに、「欲望」の主語はすぐには決められないものだと言った。「欲望」とはずいぶん不安定な言葉なのだ。では、そもそも「欲望」とはどういうものなのだろうか。
僕たちはいま大衆消費社会に生きている。こういう社会は「欲望」を前提として成り立っている。例えば、人々が最低限の生活必需品しか買わなくなったら、この社会は成り立たないのである。人々が余分なものを「欲望」し、それを実際に買うことで大衆消費社会は成り立っている。
無責任なマスコミは「もったいない」という精神を日本独特の美徳として宣伝する一方で、「家計の財布が緩まないと景気がよくならない」などと、無駄遣いの勧めを説いたりする。いったいどっちが言いたいことなのか。マスコミはもともとデタラメなものだから無視すればいいが、僕たちの「欲望」がどこからやってくるのかという問題については、考えておかなければならないだろう。僕たちは社会的な「欲望」は、決して内面から自然に沸き上がってくるものではない。君たちは「みんなが持っているから、自分も欲しい」と思ったことはないだろうか。そう、僕たちの「欲望」は「みんな」を基準にしているのだ。この場合の「みんな」とは身近な人だけを意味しない。マスコミが作り出した「みんな」もまた「欲望」の基準となる。人々が「みんな」を基準に生きることが、大衆消費社会の特徴なのである。「みんな」がお互いを真似しあっているのだ。
こういう「欲望」のあり方を利用したのが、「流行」である。ブランド品は、もっと巧妙だ。「みんな」と同じモノを身につけていることで安心を与えてくれ、それでいて「みんな」よりも少しだけ「上を行っている」感じをも与えてくれるのが、ブランド品だからである。これは、僕たち大衆の心理そのものだと言える。だから、現代思想では「私の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン)と言ったりする。でも、「みんな」の真似ではなく、はじめて何かを「欲望」する人がいる。その人は大衆ではなく、たぶん「天才」なのだ。例えば、ソニーのウォークマン伝説。あの頃、自分だけの音楽を持ち歩けるなんて誰も思っていなかった。つまり、誰もがそんなことを「欲望」していなかった。ところが、ソニーの中にそれを「欲望」した人がいて、ウォークマンという形にしたのだ。そしてそれまでどこにもなかった「欲望」を作り出した。以後ソニーは、「人々の欲しいモノを作る」会社ではなく、「人々の欲望を作る」会社だと言われたものだ。これが「天才」の仕事でなくて、何だろう。
僕たちは、「欲望」は自分の内側から沸いてくるものだと思い込みがちだ。しかし、実は自分でも気づかないで「他者」を真似ているだけだったり、どこかで「欲望」を作られているだけだったりするのかもしれない。そう考えると、こういう「欲望」の性質に自覚的になることは、いまとても大切なことだと思う。