『親鸞』
千葉乗隆『親鸞 人と歴史・日本 10』(清水書院 1973)を読む。
親鸞は9歳から29歳までの20年間、比叡山延暦寺で修行している。当時の比叡山は日本仏教の最高学府であり、法然や栄西、道元、日蓮もみな叡山で研修している。平安初期、最澄は国家権力と結んで害悪を生んだ奈良仏教(南都六宗)を否定し、遁世して山に入り、仏教的実践によって世の一隅を照らすことを理想とした。しかし最澄の死後、比叡山は次第に社会的政治的権力と結びつき、和合を旨とすべき僧集団が闘争を好み、民族宗教と妥協して堕落した。比叡山に道を求めたものは、かえって山を下り「市井の聖」となる皮肉な現象すらしめすようになった。
そこで、親鸞は当時69歳の法然の下に弟子入りすることになる。法然は「選択本願念仏集」を著したばかりであり、一般民衆にも彼のとく念仏は広く浸透し、その教勢は最高潮に達した時期であった。親鸞は法然の教えに忠実で重要な立場を預かるまでになった。しかし、旧仏教側の弾圧を受け、法然とともに流罪となり、突然越後へ旅立つこととなる。著者の千葉氏は妻帯が原因ではないかと述べる。越後で6人の子どもを設け、その後関東各地を回ったのち、京都で『教行心証』を著すこととなる。
この『教行心証』は宗教の教えが書かれているにも関わらず、親鸞は当初から門弟に書き写すことを許可している。法然の『選択集』が秘書としてその公開を拒否しているにも関わらず、親鸞は大変オープンな形で専修念仏を広めようと考えていた。また、親鸞は仏像や堂塔を否定し、既存の村堂や人家をすこし改造した道場で念仏の集会を開いた。葬祭も否定し、亡き父母の追善供養のために念仏を唱えたことは一度もない。
しかし、親鸞の死後、教団が発展していくにつれ、親鸞の教えよりも開祖親鸞の神格化が優先されていく。権力否定の同胞思想を核としていたのだが、教団護持のために権力者と手を握ることも増えていった。さらに、葬式・法会を通じて形式的に寺と檀家を結合する江戸初期の寺請制度によって、浄土真宗の根底が否定されることになった。
檀家制は宗門改に端を発する。宗門改ではキリシタンと日蓮宗不受不施派を全国的に禁止するものであったが、島津藩ではこれに真宗が加えられることになった。
浄土教は一部の門徒だけでなく民衆にも仏教の門戸を開いたが、浄土真宗はさらにフラットな関係の構築を目指した。Web2.0という言葉は十数年前に流行ったが、浄土真宗は「民衆仏教2.0」と捉えた方が分かりやすいだろう。