鈴木涼美『身体を売ったらサヨウナラ:夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬社文庫 2016)を読む。
どこかで読んだような内容が続くなあと思っていたら、過去に単行本で読んだ本だった。しかし、前回は途中で挫折しているのだが、今回は疲れた頭にぴったりの内容で、何となく最後まで読み終えることができた。
中でも、鈴木さんの自身の経験に基づく女子高生論が面白かった。一部引用してみたい。
高校時代は、おかしな格好も男ウケしなそうな服も、ギャルという記号の上で遊びながら身につけることができた。読んでいる雑誌が『ポップティーン』で買い物をする場所が109なのであれば、どんなにコーディネートに気合が入っていなくても、女子高生というレッテルを正々堂々と自分自身に貼り付けて道を歩けた。可愛らしさや自分らしさやセンスなんていうものは全部二の次で、どんなジャンルに属しているかが、私たちが私たちとして楽しむのに、最も重要なことだった。
本書全体を通じて、風俗業界やアダルト女優の頃の武勇伝や、風変わりなともだちネタ話が延々と繰り返されるのだが、「文庫版のためのあとがき」の中で、そうした自身の経歴を都合よく第三者風にまとめている。その開き直りっぷりが清々しい。あとがきだけ読めば本文を読む必要ないか?
どこにでもいる普通の男の子が、ある日雲に噛まれたり刑務所の中で空手の師匠に出会ったりして誰もが認める唯一無二のヒーローになるのが少年漫画だとしたら、どこにでもいる普通の女の子が、ある日どこかの誰かにとってだけ唯一無二の存在になるのが少女漫画である。オンナって結構安い存在だな、と思う。オトコが1人いれば、その人との閉じられた世界の中で、物語と幸福が完結してしまうのだから。
ただし、おそらくそこに登場する彼女たちも、描かれる高校生活からせいぜい長くて2、3年その幸福を噛み締めた後、もっと荒唐無稽な20代を経験することになる。根幹にはその「あなたさえ私を必要としてくれれば他には何もいらないの」的な感覚を持ちながら、でもそれは2、3年でとける魔法であるという記憶を元に、やっぱりオトコより自分磨きでしょ的な開き直りで仕事や美容や習い事に励み、どんな幸福も指の隙間から逃げていってしまうの的な絶望でクラブ遊びや深酒や無駄なセックスを繰り返す。そしてオトコ1人に選ばれる(結婚)以外にオンリーワンになる方法はあるのか。否、ない、ううん、きっとある、と自問自答を繰り返し、やっぱりあなたの胸の中が一番落ち着くとか言って絶頂を迎えた次の月には、オトコなんて本当にいらないなんて言って女友達の家に転がり込み、女同士サイコーとか言って飲みに行った次の朝は漠然とした虚しさに泣いて、思考もファッションもくるくるまわってでんでんでんぐり返ってバイバイバイ。
私は閉じられた2人の世界の甘酸っぱい幸福に酔いしれる高校2年生の物語も好きだけれど、そこから強制的に卒業させられて彷徨える女の子たちの細かい物語が好きだ。幸福で完結する物語自体が人生なのではなく、その物語を百も繰り返す過程とつなぎ目こそ女の人生だと思う。オトコなんて大きな富と名誉と幸福に向かってせーので始まってダッシュで生きている古臭い存在だけど、オンナは最初っからわかっている一番の幸福をとりあえず高校2年生の写真に貼り付けて、その後の紆余曲折を生きる。
紆余曲折なんて大抵は陳腐なものである。過食嘔吐してみたり、ギャンブルにハマってみたり、整形したりホストに通ったり身体を売ったりブランド品を買い漁ったり。安い存在だけど、私はその姿が愛おしい。つまらない依存も発散も、百回繰り返したらいいと思う。