『広重』

楢崎宗重『広重:人と歴史・日本 25』(清水書院 1971)を読む。
江戸末期の浮世絵師として名声を恣(ほしいまま)にした歌川一門の安藤広重の生涯と作品について細かく解説している。広重の代表作というと『東海道五十三次』だが、遠近法が取り入れられ、何気ない宿場の風景なのだが、日本に四季の彩りを感じるものとなっている。”芸術”志向が強かった葛飾北斎とは異なり、広重は現在の観光案内や宣伝ポスターのイラストや挿絵なども幅広く手がけており、写真が普及する以前の”デザイナー”と捉えると分かりやすい。

 鈴木春信は1765年に錦絵を創成し、版画による風俗表現に一新世紀元を画し、その後美人風俗画は清長・春章らを経て、歌麿に至って芸術的表現の絶頂をきわめた。役者絵も春章が個性描写の新様式を創始し、それは写楽に至って絶頂をきわめた。このように(中略)黄金時代を現出したが、結局、歌麿と写楽とを最後の価値体験者として、その後は芸術的価値創造性を失ってしまった。このときにあたって浮世絵に新しい視野をあたえ、芸術的価値創造の道をひらいたのは、風景画と花鳥画とであった。

花鳥虫魚の絵に一段の光彩を放ったのは北斎である。北斎はあらゆる花・鳥・諸動物をかいているが、その作風は、一面には北斎の主観的な意思的なものを反映する個物としての花鳥画であり、他面にはきわめて客観的な実在そのものの性格描写という二重性を示している。(中略)広重は北斎とは全く相反する態度を示した。客観的に対象を把握し、これを豊かな詩情をこめて表現した。(中略)自然の一角、個物的断片をかいて、これをもって自然と人生とを象徴しようとする広重の芸術は、実に客観的抽象的な題材としての花鳥を、高次な価値において表現するものである。庶民の精神生活の向上を、胸のすくような鮮やかさで表現するものであった。

回りくどい言い回しで何を言いたいのか分からないが、歌麿と写楽で美人画や役者絵、相撲絵は完成し、北斎と威広重がアプローチこそ異なるが、風景画を完成させたということは理解できる。

浮世絵
浮世、すなわち当世の風俗、世態、人物を題材とした絵のこと。
室町・桃山の狩野・土佐派の風俗画の影響を受けて起こる。初めは遊里、のち一般風俗、風景、役者など広く扱い、肉筆画と木版画がある。特に版画は菱川師宣に始まり、一色刷りから錦絵に発展。鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、それに、江戸末期の最大派閥である歌川一門出身の安藤広重などが代表的作家。版画は西洋の近代絵画、特にフランスの印象派に大きな影響を与える。
フランスの印象派は、光に反射する色彩の視覚的効果をそのままに捉えようとする技法で、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどが代表。なお、明治になってフランスに遊学していた黒田清輝によって日本に紹介(逆輸入)された。