日別アーカイブ: 2017年1月1日

<いのちの響き>優しさは強さ 宮城まり子さん「障害者にきめ細かい施策を」

本日の東京新聞朝刊生活面に、「ねむの木学園」を営む宮城まり子さんの会談が掲載されていた。
20年ほど前に就職面接でお会いした際は、今にも倒れそうなほど体調が悪そうであったが、まだまだ矍鑠とされた様子に一安心。
福祉についてごちゃごちゃ言う前に、行政を動かして学校を作り、音楽とダンス、絵画で子どもの可能性を広げる実践を何十年も続けられている宮城さんの取り組みには畏敬の念しかない。

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」が襲われ、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件で、障害者排除を正当化する容疑者の供述が、各方面に今も暗い影を落としています。決して許されない犯行ですが、私たちの心の中にも、障害者を異質なものとして見る意識はなかったでしょうか。
 今年は、施行されたばかりの障害者差別解消法を育てていく大事な年。偏見をなくすために障害者のことをもっと知る必要があると私たちは考え、障害者の暮らしに焦点を当てる「いのちの響き」を、生活面で随時掲載していきます。初回は、日本で初めて障害のある子どもの養護施設をつくった女優宮城まり子さん(89)のインタビューです。 (諏訪慧)

 ねむの木学園をつくったのは、「就学猶予」という言葉を知ったのがきっかけです。
 雑誌で受け持っていた「まり子の社会見学」という連載の取材で病院を訪れたところ、初めて耳にしました。三十歳を過ぎた一九五八年ごろのことです。
 詳しく聞くと、障害のある子どもたちは学校に通わせてもらえないとのこと。憲法では、親が子どもに教育を受けさせるのは義務なのに。
 「障害のある子が、他の子どもと違う扱いを受けるなんて絶対におかしい」と怒りが湧いてきたの。養護学校(現特別支援学校)での教育が義務化される七九年まで学校に通えないことが多かった。
 同じころ、ある舞台で脳性まひの子どもを演じることになり、いろいろ調べるうちに、障害者に対する制度が整っていないことも分かりました。
 当時の私のヒット曲に「ガード下の靴みがき」という歌があります。この歌は没になって、レコード会社のごみ箱に捨てられていた原稿用紙を私がたまたま見つけて、「歌いたい」とお願いしてレコード化されました。
 間奏に「お父さん、死んじゃった。お母さん、病気なんだ」と男の子の話し声が入ります。歌詞は作詞家の先生が書いていますが、せりふは私が考えました。
 よく出演していた日劇(日本劇場)最寄りの有楽町駅周辺には、靴磨きをしている子どもがいて、生活の糧を得ていました。そんな状況に腹が立ち、せりふを入れたんです。
 ねむの木学園につながる私の活動は、就学猶予に対する怒りと、「ガード下の靴みがき」がヒットしたことに対する責任と感じています。十二歳のときに結核で亡くなった母に「自分よりも弱い子を見たら、お手伝いするのよ」と育てられたのが、影響しているかもしれません。
 当時、障害があって複雑な家庭環境の子どもが暮らせる施設はありませんでした。
 親がいなかったり、世話ができなかったりする子どもが暮らす児童養護施設はありましたが、施設側が体の不自由な子どもには対応できなかったんです。そこで有り金をはたき、体の不自由な子どもたちのための養護施設をつくりました。六八年のことです。「女優の道楽」と陰口も言われました。
 開園時にここで暮らし始めたのは、小学校入学前後の八人。みんな脳性まひです。自力で歩けたので、今から考えればそれほど障害が重い子たちではありませんでしたね。
 とはいえ、突然発作が起きて大変です。職員は四人だけですから、食事当番は私もやりました。初めて作ったコロッケは、揚げている最中に爆発しちゃって失敗。料理は好きだけど、十二人分なんて作ったことないですからね。
 ねむの木学園を始めるに当たり、一緒に暮らしていた故吉行淳之介さんと三つの約束を交わしました。お金がないと言わないこと、愚痴をこぼさないこと、途中でやめないこと。でも、お金が足りなくなりそうになったときなど「やめたい」と口に出したことはいっぱい。愚痴もこぼしてばかりでした。
 この半世紀、法律が整備されるなどして障害のある人を巡る環境はだーん、と良くなりました。何といっても学校に通えるようになりましたから。でもね、施策にもっときめ細かさがいるんじゃないかしら。
 昨年七月、相模原市の障害者施設で大変な事件がありました。とても驚いて、なぜこんなことが起きるのだろうと随分考えました。
 逮捕された男には精神疾患があるとされ、事件前は措置入院していましたね。犯行に及ぶ前に退院していますが、退院時の病状はどうだったのでしょうか。一人一人に寄り添い、状態を見極めてあげる福祉制度があれば、違ったのではないかと思うのです。
 あとね、障害者施設で働く人がもう少し、お金をもらえるようにならなきゃいけない。ある程度、豊かでなければ、そういつも笑顔でいられません。施設が職員を集めるのだって、とても大変なんです。
 ねむの木学園のテーマソングにはね、「やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ」という歌詞があるんですよ。そう、優しさは強いんです。
 絵画や歌、踊り、茶道に力を入れています。私が好きだからというのもありますが、個性を発揮し、集中力を養うのに効果があると思うんです。集中力は何にでも応用がきくでしょ。毎年のように美術展を開き、多くの人が鑑賞してくれます。学園を続けてきて良かったとつくづく思います。
 私は年を取って自分で歩けなくなり、車いすが必要になってしまったけれど、まだやり残したことがあります。もっと優しさを広めたいのです。

 <みやぎ・まりこ> 1927年3月、東京都生まれ。女優、歌手で「ねむの木学園」園長。54年に「毒消しゃいらんかね」でNHK紅白歌合戦に初出場し、出場は延べ8回。作家の故吉行淳之介さんと暮らした。障害者の福祉と教育に尽くした功績が評価され、2012年に瑞宝小綬章を受けた。

 <ねむの木学園> 静岡県掛川市にある日本初の障害児のための養護施設。宮城まり子さんが私財を投じて、1968年に開設した(当時の場所は静岡県浜岡町=現御前崎市)。当初から、地元小学校の分校を設けたほか、養護教育が義務化された79年には、全国初の私立養護学校(小・中学部)を開校。3年後には高等部も設置した。現在は大人が暮らす施設もあり、4歳から70代の74人が生活している。

元日サイクリング

 

本日は風もなく、ポカポカ陽気だったので、昼過ぎに関宿城まで走ってきた。
ロードに乗るのは1ヶ月半ぶりだったので、足が回らなかった。
MTBの感覚に慣れたためか、ブレーキを掛けながら土手を駆け下りたり、担いで柵を越えたり、年甲斐もなくはしゃいでしまった。
今年も様々なフィールドで自転車旅を満喫していきたい。

『皇女の霊柩』

内田康夫『皇女の霊柩』(新潮社 1997)を読む。
1958年から60年にかけて行われた増上寺の徳川将軍家墓地の改葬の際に、「悲劇の皇女」和宮の棺から烏帽子に直垂姿をした若い男性の写真乾板が副葬品として見つかったが、その後の保存処理が悪かったため、翌日にはただのガラス板になってしまったという「事件」に端を発する連続殺人事件である。
人間関係が複雑で、最後は名探偵浅見光彦の天才的な推理に煙に巻かれた感じで終わってしまうが、和宮が降嫁の際に立ち寄った妻籠宿や馬籠宿、物語の舞台となった岐阜県八百津町や木地師の里など、今年こそ自転車で回ってみたいと旅情気分を味わった。
読み終わったあと、眠れなかったのでウィキペディアで八百津町を検索してみた。そこからスマホで1時間以上リンクを辿りに辿って、最後は千代田区立番町小学校のホームページまで行き着いた。